三和酒類若林 武
――若林さんは、1987(昭和62)年の入社以来、長らく営業の最前線にいらっしゃったとお聞きしました。三和酒類が「いいちこ」を主力商品として成長していった当時のことを、自身の仕事を振り返りながら教えてください。
まずは、入社動機からお話しします。私は大分県立臼杵高校から東京の明治大学政治経済学部に進学しました。3年生になるとゼミの帰りに仲間たちと、お茶の水や神保町のあたりによく飲みに行っていました。そしてある時、居酒屋で“出合った”のが「いいちこ」でした。なんといっても美味しかった。それ以来、「いいちこ」を置いてある店を探して飲みに行くようになりました。でも当時、東京都内では「いいちこ」が品薄でなかなか飲めなかったんですよ。
就職活動の時期を迎え、大分に帰るつもりでいた私は、地元の銀行、百貨店、三和酒類の3社に狙いを定めました。その中から会社訪問の時点で、三和酒類の風通しのよい社風に強く引かれ、希望通り営業職として採用されました。あの大好きな「いいちこ」の営業ができる、と勇んでいたのですが、1年目は地元で日本酒「和香牡丹(わかぼたん)」の営業を命じられました。当時の地元営業は配送兼セールスというハードな修業の日々です。
そして2年目から、東京で「いいちこ」の営業を担当することになったんです。東京での営業活動のメインは、当社の役員に同行し、卸店さん向けの「いいちこ体験会」を開催することでした。とにかく卸店さんに「いいちこ」のファンになってもらうことが狙いです。そうすることで信頼できる卸店さんから信頼できる酒屋さんに商品が渡っていきます。その際、自分自身が学生時代に「いいちこ」を飲み、この美味しさを広めたいと思ったこと、つまり商品に対する圧倒的な自信を持っていたことが、大いに役立ちました。
「いいちこ体験会」では「一度、香りをかいでください」と従来の焼酎との香りの違いを試してもらいました。大抵、みなさん驚かれましたね。そして、「いいちこ」を熱烈に支持していただけるようになりました。
取り扱いの始まった卸店さんも酒屋さんも、「いいちこを一度買ったお客様はその飲みやすさでリピーターになっていくよ」と喜んでいただきました。他メーカーの営業さんから「いいちこ、美味しいですね」と言われることもあったんですよ。時には、「いいちこが、本格麦焼酎を世間に広めてくれた」と感謝されたこともありました。
業界内だけではありません。地元大分の一般顧客の方から、「旅先で『いいちこ』を見つけるとうれしくなる」といった声をたびたびお聞きました。そんなときには、「単に商品を売るのではなく、文化を広められている」という実感を得て、非常にやりがいを感じました。
飲食店に訪問した時に、その場にいたお客様をファンにする、という伝道師のような活動も試みました。カウンターなどで隣に居合わせたお客様にまず話しかけてみる。そして、もし「いいちこ」を飲んだことがないという方ならば、「いいちこ」を自分のおごりで飲んでいただく。また、もし「いいちこ」を飲んでいらっしゃれば、「いいちこ」の商品説明をしたり。そうやって草の根的にも「いいちこ」のファンをつくっていったものでした。
――その後はいったん営業から離れ、企画室に異動されたそうですが、そこではどのような仕事をしましたか。
元々、さまざまなことを経験したくてメーカーに入ったということもあり、希望を出して、できたばかりの企画室に異動することができました。今でいう経営企画と商品企画を同時にやるような部署でした。生産増石シミュレーション、生産量を増やすための戦略、酒税法改正に伴う価格の見直し。社として取り組んだ最初の頃のかぼすや柚子のリキュールや甘味果実酒の商品開発にも携わりました。
そうそう、当時は日本酒の新たなブランド「福貴野(ふきの)」の販売を始めようという頃で、ラベル製作のイメージ資料のために、商品名の由来となった、宇佐市安心院(あじむ)町にある名瀑「福貴野の滝」まで写真を撮りに行ったりもしましたね。この写真をデザイナーに渡して、ラベルのデザインを考えていただきました。さまざまな経験をさせてもらい、他部署とのつながりもでき、生産の一連の流れも知ることができました。そしてもう一度営業に戻る希望を出しました。
――企画室を経て戻った営業先は、もっとも競争が激しい地元・九州だったとお聞きしました。
そうなんです。九州、特に福岡県では歴史的に芋焼酎が強い。また当時、福岡は日本酒ブームでもありました。そんな時に登場したのが、他メーカーさんの米焼酎です。これが九州を席巻しました。これを目の当たりにして、「頑張れば麦焼酎も受け入れられるのではないか」と勇気をもらいましたね。ここでも「いいちこ体験会」を通して飲食店(業務用)開拓に注力しました。
――ここでも他メーカーさんとの横のつながりがあったんですね。その後、いいちこ日田蒸留所の所長になられたのですね。
はい。2021年7月までの約4年間、いいちこ日田蒸留所の6代目所長を務めました。営業畑から所長になったのは私が初めてだったようですが、コミュニケーション力を買われてのことではないかと思っています。日田というところは、いまだに頼母子講(たのもしこう)があるんですよ。参加者全員が掛け金を出し、お金に困った人に貸す、というのが本来の目的ですが、そういうことも少なくなり、飲み会の資金として活用されていたんですね。多い人では10個くらいの頼母子講に入っていて。つまり月10回は飲み会があるわけです(笑)。私は代々所長から受け継いだ2つの頼母子講に入っていました。
ただ飲むだけではなく、会員がさまざまなテーマの講義をしてから飲む。私もお酒の話を講義していました。しょっちゅう顔を合わせているから横のつながりが強い。日田の強みはこれですね。祭りとなればみな協力してくれます。そういった強い横のつながりから生まれたエピソードなのですが、日田は水郷(すいきょう)と言われています。それを酔郷(すいきょう)に変えて、サッポロビールさん、地元酒造会社さん、三和酒類、そしてJR九州さん、日田バスさんと共同で「日田市内に周遊バスを走らせよう」ということになり、「水郷ひた」の酒蔵をめぐるバス「酔郷めぐり号in日田」という周遊バスを企画したことがあります。こういう話ができるのも日田ならではだと感じました。
――そして2022年に「辛島 虚空乃蔵」の支配人になられたのですね。どのようなところにやりがいを感じていますか。
はい、半年間だけ営業に戻った後、「辛島 虚空乃蔵」準備室に配属となりました。いいちこ日田蒸留所で、営業時代とは違う一般消費者の方とふれ合う楽しさを知ったので、ここでもそれができることが喜びです。「辛島 虚空乃蔵」は元々、三和酒類の本社があった場所に建てられました。日本酒づくり体験もできる、清酒醸造場と発泡酒醸造場の二つの醸造場を有し、そこで造られた日本酒や発泡酒(クラフトビール)をはじめとした「ここでしか買えない」限定商品を扱う売店、そしてそれらを楽しむことができる飲食スペースも併設しています。
珍しいお酒を求めて、あるいは憩いの時間を過ごしたいからとか、観光スポットとしてなど、訪れるお客様の目的は実にさまざまです。それぞれのお客様の「ここに来るまで」のストーリーをお聞きし、それぞれに合った商品をおすすめする。もちろん単におすすめするのではなく、弊社の歴史や開発秘話なども交えながらお伝えします。そうしてコアなファンを増やしていくことにやりがいを感じています。
――ふだんのプライベートはどのように過ごしていますか。
趣味で24年ほど能狂言をしています。始めたきっかけは、「宇佐うまい酒をつくる会」です。この会は、日本酒好きが集まり、宇佐市麻生地区で田植えをし、稲を刈り、その米で自分たちの“究極の酒”を造ろうというもの。この究極の酒「よろちのも」も三和酒類で仕込んでいます。この会に個人的にも入っていて、そこで披露する余興のために、能狂言を習うことにしたんです。
能狂言は宇佐神宮に奉納されているので、なじみがあったんですね。1回だけのつもりが、大蔵流狂言師の吉用春孝師匠について気づいたら24年になります。ほかにも「耶馬渓にっぽん酒をつくる会」にも入っています。こういった会でつながった会員さんが「辛島 虚空乃蔵」に訪れたりしてくれます。
結局、どこまでが仕事でどこまでがプライベートが分かりませんが、こういうことが心底好きなんです。むしろ全部がつながってほしいと思っているぐらいで。今後もこうした地域のつながりを大切にしながら、地元に貢献していきたいと考えています。
PROFILE
若林武(わかばやし・たけし)
三和酒類株式会社 辛島 虚空乃蔵 支配人
1963年、大分県臼杵市出身。明治大学政治経済学部卒業。「本格焼酎」ブームさなかの1980年代後半から7年間、関東エリアで営業を担当。企画室勤務を経て、九州を担当し、部長として部下を率いる。約4年間、「いいちこ日田蒸留所」の所長を務め、2022年より「辛島 虚空乃蔵」支配人に就任。趣味の能狂言は歴24年。宇佐神宮奉納イベントに参加するほか、学校などで披露、指導することも。家で飲むのは主に日本酒。最近のお気に入りは「辛島 虚空乃蔵」限定販売の純米生酒「輪奏(りんそう)」甘口。好きなアテは自作のキノコソテー。野菜をアテに飲むのが健康維持の秘訣。