三和酒類佐藤 貴裕
――本格麦焼酎でおなじみの三和酒類ですが、その歴史は日本酒からスタートしたのですね。
はい。1958年、赤松本家酒造株式会社、熊埜御堂(くまのみどう)酒造場、和田酒造場が参加し、清酒蔵置所(共同瓶詰場)として設置許可を受けました。翌年には西酒造場も加わりました。4社それぞれにブランドを持っていたのですが、当時、この界隈で一番認知度が高かった赤松本家酒造の「和香牡丹(わかぼたん)」を統一銘柄としました。以来、大吟醸、吟醸、本醸造、純米大吟醸、純米吟醸などの日本酒を造り続けています。
――佐藤さんは日本酒造りに携わって8年目になるそうですが、「三和酒類ならではの日本酒造り」について教えてください。
元々、三和酒類の日本酒造りは「杜氏制」をとっていたのですが、2014年に本社の清酒醸造場をリニューアルしたタイミングで、杜氏制を廃止し、「合議制」をとるようになりました。若手社員を含め、みんなの意見で日本酒を造っていこうということになったのです。私が日本酒造りに携わるようになったのは、合議制をとった翌年のことでした。伝統を守りながら、新しいものも取り入れやすい環境になったのは確かです。
――佐藤さんは入社前から日本酒造りを志していたそうですね。
はい。私は元々、北九州市立大学国際環境工学部の大学院(国際環境工学研究科環境システム専攻修士課程)で、中国の紹興酒などに使われるクモノスカビという麹菌を研究していました。日本酒に使う麹菌とはまた別の種類なのですが、デンプンを分解するアミラーゼの働きを調査する手法については、日本酒の麹造りに通ずるものがあります。
研究を始めた当初は漠然と食品関係を志していたのですが、担当教官の森田洋先生が大の日本酒好きで。学会などで先生と一緒に新潟や山形に行くときには、日本酒の蔵を訪ねていたんです。蔵元さんとお話しするうちに、いわゆるクラフトマンシップあふれる日本酒造りに惹かれていきました。
そして自分も日本酒を造りたいという思いが強くなり、実家の大分市からも近く、総合酒類として焼酎のほかにも日本酒、ワイン、ブランデー、リキュール、スピリッツなどを幅広く手がける三和酒類に入社することになりました。ちなみに森田先生は、い草研究の第一人者で、い草を粉末にして食品にしたり、い草の香りがもたらす学習効果などについて研究されています。
――恩師のお導きがあった訳ですね。入社してからはすぐに日本酒造りを担当されたのですか。
私は入社してまずは焼酎用の麹造りに携わりました。そして4年目に念願の日本酒製造に配属になりました。
――焼酎造りと日本酒造りに大きな違いはありますか?
三和酒類の場合、焼酎製造の大規模な仕込みと異なり、日本酒造りはまだまだ手作業が多いですね。それがやりたかった訳ですが、思った以上に体力勝負なんですよ。もろみを混ぜる作業だけでもとにかく体力が必要で(笑)。大学院で麹菌の研究をしていたとはいえ、日本酒造りに関してはやはり先輩から学んだことがほとんどです。
――日本酒造りに携わって7年間の成果は?
日本酒はお米と米麹でできているので、革新的な酒、というのは、正直なところ造りづらい面はあります。そのような中でも各社の個性があり、弊社の「和香牡丹」シリーズにはどのような個性を持たせるべきか7年間考えてきました。少し酸味があって、微発泡、ワイングラスで飲みやすい日本酒、というところは概ね確立できたと思っています。
――美味しい日本酒造りのために、外部研究機関や他社の蔵元などでも学んだそうですね。
はい。「焼酎の三和酒類が学ばせてほしいと言っても断られるんじゃないの?」と先輩方からはご心配いただいたのですが、「いいお酒を造っているお蔵さんに行かないと絶対に分からない技術的な情報があると思うので、出張に行かせてください!」と、とにかく猪突猛進で(笑)。すると思いのほか、多くの蔵元さんが快く受け入れてくださいました。
今、自分と同世代や少し上の世代で日本酒造りに携わられている方々は、「日本酒業界全体を盛り上げよう」ということで、横のつながりを大事にされているんです。本当に包み隠さず教えてくださいました。2018年には酒類総合研究所に1カ月半研修に行きました。全国から集まった約25人が3人1組になり、ともに作業し、各社のノウハウを共有しながら、イチから日本酒造りをしたことはとてもよい経験になりました。
そういう経緯があるので、今は他の蔵元さんから見学の申し込みも来るのですが、私もできる限り包み隠さず案内するようにしています。
――多くのことを学んだ中で、特にお仕事に役立ったことを教えてください。
そうですね、いろいろありますが、飯米を使った日本酒造りには外部で学んだ知識が活かされました。地元の大分で栽培されている飯米ヒノヒカリを使用した「和香牡丹 純米吟醸ヒノヒカリ50」が、理想とする酒質にたどり着くまでに、約4年を要しました。
通常酒造りに使う酒米(さかまい)と、食用の飯米はデンプンの構造が違います。酒米は粒の中心に白濁した心白(しんぱく)というものがあります。心白があると溶けやすく、雑味の元となるタンパク質や脂質が少なく、酒造りに適しています。ところが飯米には心白がないので、溶けにくく、タンパク質や脂質が多いため雑味が出やすい。また、酒米に比べてねばりがあるため麹造りの際に手についたり、均一に冷やせなかったりと扱い方が難しかった。
これを解消する方法を、飯米を使っている蔵元さんが教えてくださったんです。米を洗った後に、できるだけ糠(ぬか)分を除去するために、丁寧にシャワーで洗い流す工程を設けること。この手法を採用して以来、酒質が格段に良くなりました。その蔵元さんには本当に感謝しています。
――そして2022年5月にオープンした飲食スペース・売店併設の体験施設「辛島 虚空乃蔵」内に新設された清酒醸造場の責任者になったのですね。
はい。この清酒醸造場には3つの役割があります。1つ目は「辛島 虚空乃蔵」限定の日本酒「和香牡丹 輪奏(わかぼたん りんそう)」を醸造することです。この「和香牡丹 輪奏」はまったく火入れをしていない生原酒なので、管理が大変ではありますが、弊社の中でも生酒を造っているのはここだけですし、全国的にも隣接する製造場で醸された、しかも搾ったままの状態である生酒を飲んでいただける施設というのは珍しいと思います。
そして2つ目は今、少しお話ししましたが、見学、体験施設としての役割です。見学の方は、作業場がガラス張りになっているので、精米から蒸米、麹造り、仕込み、貯蔵など、酒造りの様子を目の前で見ていただくことができます。
もろみを混ぜる櫂入れ(かいいれ)の工程であるとか、米を蒸す工程であれば、冷めてきた米を触っていただいたり、麹造りの工程であれば、実際に出来たての麹を食べていただいたり。一般の方から、他県の蔵元さんまで、プロアマ問わず、お越しいただいています。
3つ目は新商品の開発です。米や酵母を変えたり、江戸時代からの伝統的な製法である生酛(きもと)造りに挑戦したり、白ワインを感じさせるようなより酸味の効いた日本酒を仕込んだりと、さまざまなチャレンジをしています。さらに、ここで開発された商品や製法が、三和酒類の日本酒造りにフィードバックされていくことも想定しています。
――三和酒類全体の日本酒開発も担っているのですね。では、佐藤さんが考える「三和酒類が今後、目指すべき日本酒の姿」とは?
「麹文化の酒を広める」ということは、社内でもよく言われていることです。麹を使ったお酒という観点では焼酎も日本酒も同じですが、焼酎はもろみを煮沸する蒸留工程というものがあります。一方で日本酒は搾ったそのままが商品になります。作り始めたら細工ができないっていうか、本当に繊細なお酒なんです。
そうした違いがあることを発信していくとともに、日本酒の複雑な工程を見て体験していただくことができる「辛島 虚空乃蔵」を通じて、日本酒ファンを増やしていくこと。それが創業時から日本酒製造を生業としてきた三和酒類の使命だと思っています。
――佐藤さん自身の今後の仕事の展望について教えてください。
日本酒造りを本格的に始めてわずか8年目で、酒造りのすべてを決めることができる醸造の場を与えてもらい、かつそこで、お客様との接点も作ることができる。そんな場所で働かせてもらっていることを、とても幸せに感じています。まずは日本酒ファンに好んで飲んでいただける日本酒を造り、新たに日本酒の魅力や美味しさを発信していく。それを継続していくこと。これに尽きます。
――会社としてのあるべき姿と佐藤さんの今後の展望が合致しているのですね。それでは最後に、ご出身地でもある大分の魅力について教えてください。
神社と日本酒には深い関わりがありますが、八幡社の総本宮である宇佐神宮のお膝元で酒造りをしていること。それが、大分県宇佐市で酒造りをしている弊社の魅力の1つだと思っています。そして大分県の魅力といえば、やはり食事ですね。海の幸、山の幸がふんだんにあり、本当に何を食べても美味しいなと、特に他の土地から帰って来た時に実感します。そのような恵まれた食材に寄り添う酒造りに今後も取り組んでいきたいです。
PROFILE
佐藤貴裕(さとう・たかひろ)
三和酒類株式会社 辛島 虚空乃蔵 チームリーダー
1986年、大分市出身。北九州市立大学国際環境工学研究科環境システム専攻修士課程にて麹菌を研究。修士号取得後、2011年、三和酒類に入社。2022年より「辛島 虚空乃蔵」に併設する清酒醸造場の責任者を務める。日中は日本酒造りにいそしみ、帰宅後はすぐに晩酌(主に日本酒)するほどの酒好き。お気に入りのアテは瓶詰めオリーブとチーズ。独身寮時代に始めたマラソンが趣味で、ベストタイムは2015年別府大分毎日マラソンで記録した3時間12分。プライベートでは男子2児の父。