1999(平成11)年12月22日。大分県宇佐市のホテルパブリック21の会議室に、ボトル数本が運び込まれた。ボトルの中身は、発売前の麦焼酎。ノーラベルなのは、これからブラインドでの試飲会が行われるからだ。
会議室に集まった面々は、宇佐市長、大分宇佐農協組合長のほか、大分県宇佐両院地方振興局長、大分県農産課長、大分県農業技術センター長たちと、製造元である三和酒類の関係者たち。試飲の対象となるのは、かねてから本格焼酎の原料として使われてきた従来品種の二条大麦「ニシノチカラ」と、新たに生産が開始された二条大麦新品種「ニシノホシ」の2種をそれぞれ使って試作した麦焼酎。ブラインドでの試飲にしたのは、先入観なしの状態で口に含んでもらうためだ。
試飲会が始まった。参加者がそれぞれ配られた2種類の試飲用カップの焼酎を口に含み、手元の用紙に試飲後の感想をメモとして書き込む。ひととおり飲み終わった後で、来場者は感想のメモを読み上げた。
「香りが良い」「なめらかな味だ」「女性に支持されそうな優しい味わいです」等々。結果として、参加者の多くの方々が、一口飲むとすぐさま、新登場のニシノホシによる焼酎に高い評価を付けていた。
この結果を受けて「まずは最初の“ミッション終了”」と胸を撫でおろしたのは、三和酒類の代表取締役常務であり製造責任者の和田久継と、取締役研究所所長の下田雅彦(役職はすべて当時。以下同様)。
ニシノホシを用いた試作品の麦焼酎は、三和酒類の研究部門と製造現場のスタッフがタッグを組んで開発しただけでなく、国・県の農政から農業の現場にいたるまでの産官協同研究により生まれたものだ。さまざまな形で大麦に携わった人たちのリレーションシップは、長い歳月を経て、ようやくこの日にひとつ実を結んだのである。
期待の大麦・ニシノホシの誕生譚をたどると、その発端は1980年代に遡る。
「大分県の麦焼酎は歴史が浅く、『ニシノホシ』の開発当時、当社の技術的蓄積はほぼ何もないところからのスタートでしたね」。
そう当時を振り返るのは、三和酒類の現会長である下田雅彦だ。大分の麦焼酎というものは既にあったが、まだまだ大分県全体で麦焼酎の産地として製造技術が確立しているとは言えない状態だった。
下田の三和酒類入社は1984(昭和59)年。大阪大学で発酵工学を学び、卒業後は関西の大手日本酒メーカーに就職。日本酒業界での5年間の勤務を経て、地元・大分の三和酒類へUターン転職した若手社員の下田が直面したのが、「他の焼酎産地に比べて大分の麦焼酎は産地として歴史的な背景が確立されていない」という実感だった。「これから、新たに歴史をつくろうと奮起しました」。
当時の三和酒類はというと、下田が入社する以前の1979(昭和54)年には、すでに本格麦焼酎「いいちこ」が誕生している。これは、一次発酵も二次発酵もすべて麦を用いるという、麦100%の麦焼酎*1だ。この新商品の大ヒットにより、会社は急成長を遂げていた。*1 麦100%の麦焼酎:焼酎は一般的に、一次発酵で米を原料とする米麹(こめこうじ)を使い、二次発酵の際の主原料が麦ならば麦焼酎、芋ならば芋焼酎、米ならば米焼酎となるが、「いいちこ」では一次発酵でも麦を原料とする麦麹を使っている。
1983(昭和58)年には増加する「いいちこ」の需要に対応するため、新工場(山本工場)を開設。「いいちこ」が将来的に生き残っていくためには、製造技術を堅実なものとするだけでなく、麦焼酎の産地としての大分のブランドを確立していく必要がある。同時に、高い品質の麦焼酎の製造法も探っていかなければならない。そこには、研究技術者の存在が不可欠だという経営者の判断により、白羽の矢が立ったのが下田だった。
「入社して最初に与えられた大きなテーマが、麦焼酎の研究所をつくることでした。その時は、直接の上司が社長という状態でして、当時の社長から『麦の研究なら日本一という研究所をつくれ』と命じられて、1989(平成元)年4月に三和研究所ができました」(下田)
とにかく麦の研究をする。それを念頭に研究活動を始めようとした。しかし、日本酒と比べて歴史の浅い麦焼酎には、技術のベースも原料麦に関する資料もほぼ皆無という状態だった。
原料麦の一種である二条大麦は、ビール用の原料麦としての評価はあるが、麦100%の麦焼酎に用いる麦麹用の麦としては、まるでデータがない状態。麦について学ぼうとする下田は、茨城県つくば市で開催された食品総合研究所の全国大会にも遠路はるばる参加してみたが、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)、うどんなどに使用される食用の麦についての研究発表はあっても、麦焼酎の原料についての言及はまったくなかった。
「私が働いていた日本酒の業界には、良い日本酒を造るための酒造好適米というものがありまして、吟醸酒には山田錦という酒造好適米が最適とされていました。けれども、当時の麦焼酎の世界には、どんな原料麦が良いかという概念すらなかった。麦焼酎の麦は、麦であれば何でもいいでしょうという程度の認識でした」と下田は振り返る。
「それなら自分たちが大分で研究するしかない、と思いました。それで麦の適性評価という研究、実験を社内でスタートさせたのです。並行して、その頃の資料としては、鹿児島の鮫島吉広先生(当時の薩摩酒造株式会社 研究室長兼製造部長。後に鹿児島大学農学部特任教授)が発表されていた麦焼酎の原料処理に関する論文などがあり、私はそれらを懸命に読みました」
そこに追い風が。時を同じくして、大分県内の複数の酒造メーカーにより「大分県本格焼酎技術研究会」が発足したのだ。酒税法の大幅改正による焼酎への増税を前に、焼酎業界の大打撃を避けるべく、産地としての生き残りをかけて麦焼酎の技術開発をする必要性は、三和酒類以外の焼酎メーカーでも大分県庁でも、そして国税庁でも論じられている課題だった。
三和研究所の発足から3年目を迎えた1991(平成3)年には、同研究所が事務局となり、大麦についてのシンポジウムを宇佐市の本社社屋内で開催している。研究室長である下田が登壇しただけでなく、農林水産省農業研究センターの作物部長や精麦会社の社長を講師に招き、原料大麦について学ぶ機会をつくった。
「私たちはそれまで、皮つきの原料大麦がどういうものか見たこともなかったんです。原料大麦は、まずは農家から集荷され、精麦をする会社へと納められて、そこで精麦したものが私たちのもとに届くという流通だったので。なのでシンポジウムでは精麦会社の方に講演をお願いして、原料大麦の品種や性質について教えていただいたんです。
日本酒の業界ではとうの昔に定着していた『酒造好適米』と同様のものとして、『焼酎製造に適した大麦品種』という言葉を使い始めたのもその時の経験がきっかけです。大粒で、精白しやすくて、麹を造りやすい大麦。麹にした際には、その酵素力価(りきか)*2も消化試験を見てみることにしました。焼酎製造に適した大麦品種として、日本酒における酒造好適米・山田錦のようなものを求めたらよいのではと考えたんですよね」(下田)*2 酵素力価:酵素が物質を分解する強さ。焼酎の製造においては、酵素が働いて原料である麦や米のでんぷんやタンパク質を分解することで発酵が進む。
社内での実験、データ集計を重ねながら、続く第2回のシンポジウムは1993(平成5)年に開催。大分県本格焼酎技術研究会と三和酒類の共同開催で、他のメーカーも招いて大分市のホテルで行った。これが後の「焼酎原料に適した大麦の選択と評価法の確立」を目指す産官協同研究のきっかけとなる。
「我々の1社だけでなく、みんなで一緒に勉強したほうが良いと考え、多方面からの人たちをお招きしました」と下田は言う。「講師としては、種麹(たねこうじ)屋さんにお話を聞いたり、臼杵(うすき)市のうすき生物科学研究所の方に味噌麹の特性についてお話ししてもらったり、熊本国税局の先生に焼酎製造における麹の役割をお聞きしたりしました」(下田)
「三和研究所からは、『焼酎大麦麹の特性について』と題して、麹にした際の酵素力価や消化性について、麦の品種ごとに異なる結果を発表しました」(下田)
この時発表した研究では、外国産麦、二条大麦、六条大麦を試験の対象とした。麦麹としてどれだけ溶けるかという酵素力価だけではなく、焼酎製造中のもろみの腐敗防止に重要な役割をはたす酸度なども条件に加えて、麦麹の総合力価を設定し、それぞれの大麦品種を評価した。
「この結果で、品種によって総合力価に差がありそうだということが分かってきました。なので、この総合力価を調べる手法が、焼酎製造に適した大麦の品種選抜に使えるのではないかと考えたんです」(下田)
ニシノチカラ (二条大麦) |
76 | 167 | 79 | 6.8 | 2.4 | 10.3 | 1.0394 | 72.1 | 15.1 | 1088 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ミノリムギ (六条大麦) |
51 | 120 | 81 | 7.5 | 1.9 | 9.9 | 1.0376 | 73.5 | 14.9 | 1099 |
外国産No.8 | 90 | 183 | 82 | 6.6 | 3.1 | 9.9 | 1.0376 | 74.2 | 15.2 | 1131 |
当時の麦焼酎には一般的に、鹿児島の河内菌(かわちきん)という麹菌が使用されていた。その同じ麹菌を使って、麦の品種だけを変えて実験をすれば、消化試験、溶解試験、酸度の結果にもそれぞれの差が出てくることが分かる。この手法でデータを出していけば、焼酎に向いた麦の選抜ができるはず。そう考えた下田たち研究員は、日々の実験を重ねた。
「研究データが蓄積されていくうちに、これはいけるのではないか、焼酎製造に適した大麦品種を開発できるのではという手ごたえを感じました」(下田)
下田は、大分県工業試験場の化学部長だった長森義知氏と連れ立って、大分県農業技術センターに出向き、「麦焼酎に適した麦の開発をしたい。つきましては、共同研究をさせていただけませんか」という申し入れを行った。
それに対して同センターからは、「我々も大分の焼酎の発展を目指しています。そのために役立つような共同研究をやりましょう」という前向きな力強い返事をもらえたという。
その様子を近くで見ていたのが、同センターの白石真貴夫氏 だった。
白石氏によれば、「当時の産官協同研究の始まりであり、印象的な出来事として記憶に残っていますよ」とのこと。白石氏は後にこの焼酎製造に適した大麦品種の研究に携わり、農村内を駆け回ることになるのだが、その奔走ぶりについては後編で記述する。
スタートを切った産官協同研究の主なテーマは3つ。1つ目は、大麦の焼酎醸造適性を判断するための評価方法の検討と確立。2つ目が大麦品種ごとの醸造適性の評価。3つ目は焼酎醸造に適した大麦品種の選定だ。この3つのテーマに沿っての研究は、1994(平成6)~1997(平成9)年の約4年間続いた。
原料大麦に関する調査研究での主な試験内容は次のとおりである。
・千粒重(70%精麦1,000粒の重量)
・精麦時の破砕率
・でんぷん、タンパク質量等の成分
・浸水時の吸水性
・麹の酵素力価、酸度、消化性等
・大分での栽培適性
さまざまな実験を繰り返した4年の後に、この大麦が一番優秀であろうと候補に挙がったのは国の機関である九州農業試験場で育成されていた「西海皮(さいかいかわ)54号」。これが後年、「ニシノホシ」と命名されることになる二条大麦だ。1997(平成9)年9月、農林水産省九州農業試験場がこの二条大麦について、新品種として品種登録を出願し、ほどなくして大分県が奨励品種として採用した(品種登録の完了は2001年)。
ニシノチカラ | 食用大粒大麦 | 登録 | ◎ | ○ | △ | △ |
アサカゴールド | ビール醸造用 | 登録 | ○ | △~○ | △~○ | △~○ |
西海皮54号 | 食用大粒大麦 | 未登録 | ◎ | ○~◎ | ○~◎ | ○~◎ |
関東二条29号 | ビール醸造用 | 未登録 | × | ○ | ◎ | ◎ |
ただ、この新たな品種を使った焼酎の商品化については、下田は慎重な姿勢をとった。「確かに焼酎製造に適した大麦品種として優秀な品種であることは分かりました。山田錦のような存在になれる可能性もある。でも研究としてのデータは揃っていても、実用規模の何トンという量での仕込みは、試していないわけですから、必ずしも良い焼酎になるかどうかは分かりません。当時の私は研究者であって、これを当社の焼酎に使用するかどうかの判断まではできませんでした」。かくして、「西海皮54号は優秀な品種である」という研究結果を得たまま、すぐさまその実用には至らなかった。
ここで舞台は、大分県庁へ。1998(平成10)年、農林水産省からの指針が示されていたものの、一向に進まぬ水田の生産調整(稲作の減反と転作)*3に頭を抱えていたのは、大分県宇佐両院地方振興局農業振興課課長の森下幸生氏だ。*3 水田の生産調整:生産過剰になった米の作付面積削減を目指し、米農家に補助金を支払うことで転作を支援して生産量の調整を図った国の政策。1960年代から試験的に実施され、1971年に本格導入された。
宇佐市、安心院町(あじむまち)、院内町(いんないまち)という1市2町は、かつて総称して宇佐両院(うさりょういん)と呼ばれ、水田面積が県全体の17%を占める県内最大の米穀地帯だった(安心院町、院内町は2005年に宇佐市に合併)。県の方針として、この水田面積の約33%となる2415haを稲から別の穀物へと転作する必要に迫られていたにもかかわらず、宇佐市、安心院町は、それぞれに割り当てられた転作面積の目標に対して、転作を達成した面積が80%に満たないという難しい状況にあった。
同時期、国では新たに食料自給率を上げるための農業基本法の制定が進み、米以外の穀物、麦、大豆への集団転作が推奨されていた。そんな折に森下氏のもとに入ってきたのが「焼酎用の有望品種として選抜されたまま、その後の動きがないニシノホシの使用を三和酒類に働きかけてほしい」という要請だった。
「農家に無理を言って減反をお願いするのではなく、生産調整が地域と農家にとってプラスに働くものであってほしい」。かねてより、こう願っていた森下氏は、ニシノホシを単に稲作の裏作とするだけでなく、もうひとつの転作作物である大豆と組み合わせた二毛作とすることで、農家にとってより有利になるのではないか、と希望を抱いた。そのニシノホシを地元の焼酎メーカーで使ってもらうことは、収穫した大麦の大きな受け皿になるし、地域の活性化にもつながる。
善は急げと早々に県の関係者数人で三和酒類本社を訪問したのは、1998(平成10)年7月。話し合いの席に着いて対応したのは、和田久継常務と久継靖雄(ひさつぐ・やすお)課長だった。
宇佐市を中心とした県内の生産者との契約栽培実施とそのための協力を要請する森下氏たちに対して、三和酒類側から返ってきたのは慎重な姿勢だった。曰く、「三和酒類としては、地元産大麦に対する関心は強く、付加価値のある商品開発の可能性については研究したいと思います。ただ、実務レベルでは安定した量と品質の確保が必要となります」。
メーカー側としては、しごく当然の要求である。ニシノホシの品質と数量を安定させる可能性は、現状では未知数だった。森下氏としては、和田の言葉にうなずくしかなかった。しかし、だからといって、ここで終わらせるわけにはいかない。この日、森下氏は次回の訪問日だけを提案して三和酒類を後にした。
悄然(しょうぜん)として車に乗り込んだ森下氏は、その車窓から水田を眺めた。7月の田んぼには、青い稲が育っている。「ここにニシノホシがたわわに実ったら……それが地元の焼酎になる。そうなったら、なんと素晴らしいことだろう」。そんな地産地消が実現する未来を思い浮かべると、次第に気持ちが立ち直ってくるのを感じた。
「地元の企業にとっても、地域の農家にとっても、この提案は絶対に無理というものでもないはず。あきらめずにいこう」。同行したスタッフに語りかけた言葉は、むしろ自分自身に言い聞かせるものでもあった。水田の風景に励まされた森下氏は、粘り強いチャレンジをしようと再度の訪問に希望をかけた。
麦、と一括りに表記されがちだが、麦はまず大麦と小麦に大別される。大麦と小麦の区別には昔から諸説あり、どちらもイネ科の植物で、実の粒の大きさには大差がないのだが、畑に種を撒いた後の成長過程で、幼植時の葉が幅広く大柄に見えるものに大麦の名が付いたという説もある。
大麦と小麦とでは成分が違うため用途も異なる。グルテンが多く含まれている小麦は、パンや麺への加工が適しているのに対し、大麦の主な成分はでんぷんであるので、麦飯などの食品、あるいは焼酎、ビールなどでんぷんを分解して加工する酒類の原料として用いられる。
大麦は「二条大麦」と「六条大麦」の大きく2つに区別され、さらにこの2つの中でそれぞれ「はだか麦」、「皮麦」と分けられる。二条大麦のはだか麦、二条大麦の皮麦、六条大麦のはだか麦、六条大麦の皮麦という4つに分類されて、その特性によって用途が選ばれる。
二条大麦と六条大麦は、結実する穂の数が二列であることと六列であることの違いから命名されている。二条大麦は六条大麦に比べ、実の粒が大きく、でんぷん質が多く、タンパク質が少ない。六条大麦は、でんぷん質が少なく、タンパク質を適度に含むという特徴がある。
そのうち皮がはがれにくいものが皮麦、はがれやすいものがはだか麦で、はだか麦は六条大麦が一般的だが、近年では二条大麦のはだか麦も多く出回っている。食物繊維が豊富に含まれており、麦飯、麦味噌の原料として使われる。
焼酎の原料として用いられるのは、二条大麦の皮麦で、ビールやウイスキーに使われる大麦品種も同様である。焼酎用としての加工にあたっては、実が皮にしっかり付いているため、麦の表面を削って皮を除く精麦の工程が重要になる。六条大麦の皮麦は、麦飯や麦茶に用いられることが多い。