オーベルジュ「physis(ピュシス)」オーナーシェフ川﨑 遼平
パリで5年連続ミシュラン1つ星を獲得したシェフの川﨑遼平さん。広島県出身の川﨑さんが帰国後、新たな出発の地に選んだのは日本の田舎の原風景が残る大分県国東(くにさき)市でした。料理人を志したきっかけから、世界各地での修業を経て、父と共にパリでレストランを開いた経緯、そして大分に移住し、さまざまな出会いの中で念願のオーベルジュ*1を作りあげるまでの挑戦に満ちた半生をお聞きしました。*1 オーベルジュ:フランス語で「宿」を意味する、宿泊施設を備えたレストランのこと。 文:青柳直子 / 写真:三井公一
――川﨑さんが料理の道を志したのはいつ頃ですか。
高校まではサッカー一筋だったのですが、プロになるのは難しいという現実を前に、進路に悩んでいた高校3年生の時、父からフランス旅行に誘われたんです。父は広島市内でフレンチレストランのオーナーシェフをしているのですが、僕としてはその時点で料理人になるという選択肢はありませんでした。
でも1週間のフランス滞在の間に、食べ歩きや美術館巡りをして、帰りの飛行機の中ではフレンチの料理人になろうかなと言っていたと思います(笑)。
――それはお父様のもくろみ通りということでしょうか。
どうでしょうか。父の真意は分かりませんが、とにかく僕自身がフランスの街並みや雰囲気、アートや建築などフランス自体に憧れを抱いて「自分の店を持ちたい」と思い、そのために料理の勉強もしようと思ったんです。
それで高校卒業後、東京に修業に行きました。フランスに行く前にまずは日本で学んでから、と思ったんです。誰もが知っているような有名店に手紙と履歴書を送りましたが、もちろん未経験ではまったく相手にしてもらえませんでした。結局、父の友人の紹介でイタリアンレストランに入店し、初めはサービスから、半年後に系列店の厨房に空きが出て、ようやく料理に携わることができました。
それから都内のフレンチのお店2軒で経験を積んだのですが、2軒目のオーナーがフランス人で、その方に現地のお店を紹介してもらうことができて、そこで働くことになりました。上京して約8年後のことです。
――ついに念願のフランス行きが実現したのですね。
はい。ワーキングホリデーでアルザス*2に行きました。お店があったのは小さな村で、周りは全てワイン用ぶどうの畑という恵まれた環境でした。ただ、日本人スタッフが多くて、厨房の中は東京と変わらない状況だったんです。1年間というワーキングホリデーの期限もあったので、早めに環境を変えたいと思い、お店と交渉してなんとか半年で辞めさせてもらうことになりました。
それから、フランス全土の星付きレストランに手紙と履歴書を送り、一番早く返事をくれたパリ11区の「Qui Plume la Lune(キ・プリュム・ラ・リューヌ)」に入店が決まりました。*2 アルザス:アルザス地方はドイツ、スイスとの国境に接するフランス北東部の地域。山や川に囲まれた昔ながらの美しい村の景観が有名。ワインの産地としても知られ、星付きレストランも多くある。
――とにかく手紙と履歴書を送るというのは、東京で修業をしようと決めた時と同じですね。節目での行動力に驚かされます。
それしか方法がなかったんです。でも採用されたのは先人のおかげだと思っています。フランスに行って初めて分かったことですが、日本人は真面目に働くので評価が高いんです。
初めて働いたパリのレストランで、料理単体ではなくコース全体の流れで、その料理の魅力を表現するという考え方を学びました。また働き方の面でも学びがありました。そのお店は週休3日で、1日目はしっかり休み、2日目は家族と過ごし、3日目は自分の好きなことをする、ということを推奨していたんです。オーナーのこうした「しっかり働いてしっかり休む」という考えに感銘を受けました。
――その後、デンマークのコペンハーゲンへ移ります。
フランスのバカンス期間の1カ月間で研修できるお店を探して、今度は北欧やイギリスのお店に手紙と履歴書を送りました。当時は北欧料理の注目度も高く、フランス以外の国でトップと言われているレストランも見てみたかったんです。そして、やはり一番早く返事をくれたコペンハーゲンの「Relæ(レレ)」に研修に行きました。
デンマークにはフランスのような伝統的な料理がないので、新しい発想で自由に料理をしているという印象でした。その店には世界中からスタッフが集まり、皆とても楽しそうに料理をしていて、自国の文化を大事にしているんですよね。それってすごく自然なことだなと思ったんです。
ヨーロッパに行って、やっぱり自分はアジア人で日本人であるということを強く感じたんです。それまではフランス料理はこうじゃないと、という固定観念があったのですが、「Relæ」の厨房を見ることで、もっと自由に、自分が生まれ育った環境や文化を料理に取り入れようと、少しずつ考えが変わっていきました。
――そして2016年にお父様と一緒にパリで「KEN KAWASAKI」をオープンします。
ワーキングホリデーの期間が終わる頃、父が「フランスで店をやろう」と言い始めて。最初は本気にしてなかったのですが「せっかく同じ職業に就いているんだから、一度でいいから一緒に働きたい。自分の年齢的にもこれが最後のチャンスだ」と言われて。フランスで店を持つのは父の長年の夢だったんですよね。僕はまだまだ修業したかったですし、父の店の立ち上げを手伝って、1年後ぐらいに抜けようと考えました。
――1年で抜けるつもりが、立ち上げてしばらくすると料理長兼店舗責任者に就任します。どのような経緯があったのでしょうか。
立ち上げ時、父は広島のお店と行ったり来たりで、経営者という立場でした。料理長には在フランスの日本人の先輩に就いてもらい、僕は料理補助として入りました。
ところが開店から半年の間に、父も先輩も日本にいなければならない事情ができてしまって、やむを得ず僕が料理長になります。その際、父には「自分のやり方でやらせてほしい」と言って、昼夜3種類あったコースを1種類に絞りました。それでも最初は思うような料理が作れず苦しかったですね。
――しかし料理長に就任した翌年、2018年にはミシュランの1つ星を獲得します。驚くべきスピードですね。
もちろんいつかは星を取れたらいいなとは思っていましたが、まさかこんなに早くいただけるとは思ってもみなかったので、僕も周りもびっくりで。しばらくは騙されているんじゃないかと思ったくらいです(笑)。何を評価していただいたか見当もつきませんでした。
――先ほどお話しされた「アジア人であること、日本人であること」は料理の要素に入れていたのでしょうか。
日本人としてフランスの料理と向き合い、素材を活かすということを考えていました。
それから伝統的なフランス料理ではまず使わない麹を、調味料の一種として取り入れていました。フランスで酒蔵を立ち上げた日本人の方と知り合いになり、その酒蔵で白麹を作らせてもらって、甘酒にしてムース状にしたり、ピューレにしてソースをかけたり。マリネにも麹を使いますね。塩麴、玉ねぎ麹、レモン麹を作ってソースに使うということは今でもしています。
また当時はパンも店で焼いていて、甘酒から酒種酵母*3を作って生地を発酵させていました。フランスの主食であるパンを、日本の食文化の中心である麹を使って焼くということは、日本人のフレンチシェフである僕なりのストーリーとして特別なことだと思ったので、メニューに「私たちのパン」という説明を載せていました。*3 酒種酵母:日本酒を仕込む際に発酵源として使われる酵母。
――以来5年間、1つ星を取り続けました。プレッシャーはありましたか。
実力以上の評価を受けたという思いがあったので、毎日来られるお客様に喜んでもらえるかどうかというところでプレッシャーは感じていました。星付きレストランを回っているというお客様もいらっしゃるので、確実にハードルは上がりました。
星を取る前は父にコース料理のアドバイスをもらっていたんです。本音を言ってくれる人はなかなかいないので、父の意見はとても貴重でした。でも星の評価を受けてから、あまり意見を言わなくなってしまって。僕としては寂しい気持ちと、あとは自分でやるしかないという思いが湧きました。
――そんな中、お店を閉めて帰国を決めたのはなぜですか。
実は初めから帰国することありきだったわけではなくて、パリでお店をやる中で、自分の気持ちが生産者や田舎に向いたことで、移転してフランスの田舎でお店をやりたいと考え始めました。しかし、フランスでは飲食店の数を国が制限していて、新たに飲食店を開くには、移転先で元あったお店のライセンスを購入しないといけなかったんです。1軒、田舎のお店とのいい出会いがあったのですが、コロナ禍が始まってテイクアウトや出張料理に追われているうちに、他の人の手に渡ってしまったんです。そんなことや、漠然とではありましたが胸の中にあった「いつかは日本でお店をやりたい」との思いも重なって、帰国を決めました。そして2022年に帰国しました。
――2022年の帰国から2024年に国東で開店するまで時間が空きますが、その間は何をされていたのですか。
帰国してすぐ、ご縁があった大分の別府に住み始めました。しかし、パリのお店を閉める時に抱いた、それまで応援してくれた人やお店に通ってくださったお客様を納得させるお店を作らなければ、との想いから、僕のイメージしていた日本の田舎、海と山が近い国東に引っ越しました。「地に根差す」という意味で新築より古民家がいいと考え、空き家バンクで本格的に探し始めました。
その間、貯金も減る一方なので、アルバイトをしようと思って。考えてみればこれまで飲食業以外で働いたことがなかったので、フランスで興味をもった生産者のもとで働きたいと思い、こだわって作ってらっしゃる野菜農家さんを手伝わせてもらいながら、1次産業での求人を探し始めました。そして国東でウニの養殖をしている「大分うにファーム」の求人を見つけました。「大分うにファーム」では、温暖化の影響で増えすぎて藻場を食い荒らし「磯焼け」を引き起こす、いわゆる磯焼けウニを畜養するウニノミクスという取り組みをしていて、とてもいいなと思ったんです。
面接では、自分の状況と想いをすべて話しました。いつまで働けるか聞かれた時、「物件が見つかり次第。1年後かもしれないし、1カ月後かもしれない」と正直にお伝えしたところ、社長が「いつまででもいいよ。応援するから」と言って雇ってくださったんです。
社長には地元の漁師さんの紹介もしていただき、本当にお世話になりました。
――現在のお店を開くことになる古民家とはどうやって出合ったのですか。
理想としては、「ポツンと一軒家」的な森の中の家だったのですが、なかなか納得のいく物件がありませんでした。そんな中「登録前だけど」と見せてもらったのが、築99年のこの家でした。景色がよくて農地がついていて、ここだ! と思いました。田舎でレストランをするにあたって、せっかく来ても帰るのが大変だとか、車だからお酒が飲めないということを気にしなくていいように、宿泊ができるオーベルジュがいいと思っていたんです。
さっそく持ち主の方に電話したら、家がおじい様の名義になっていて名義変更が大変だから売れないと。でも諦めきれなくて「賃貸ならどうでしょう」と交渉しました。そうしたらお住まいの佐賀県から会いにきてくださって。そこで僕の想いをお話ししたところ、「頑張って名義変更するわ」と言ってくださったんです。本当にありがたいことですよね。
――熱意が伝わったのですね。そして2024年5月に「physis(ピュシス)」を開店します。お店づくりはどのように進められたのでしょうか。
広島の父の知り合いの大工さんに来てもらい、僕が希望する間取りが構造的に可能かどうかを判断しながら一緒に考えてもらいました。左官は、自分が店をやるなら絶対この方に壁を塗ってもらいたいと決めていた江口征一(えぐち・せいいち)さんにお願いしました。江口さんはkoji noteに登場された原田進さんのお弟子さんなんですよ。
この店の象徴的存在である厨房のカウンターは、向かいの山の土を使わせてもらいました。田んぼを挟んだ向かいのお宅の方に「どこかにいい土はないですか」と聞いたところ、「うちの山の土使っていいよ」と言ってくださって。昔は家を建てるとなると、地域のみんなで協力して、木を切り出したり土を掘ったりしていたそうなんです。
店名の「physis」は、向かいのお宅でお酒を飲んでいる時、江口さんが「ギリシャ語でこういう言葉があるよ」と教えてくださって、これしかないと決めました。さまざまな意味がありますが、僕たちの解釈は、「本来の自然/自然(じねん)/本来そうであること」です。
――巡り合わせやご近所のご協力もあり、理想のお店づくりができたのですね。食材の仕入れはどのようにされていますか。
野菜は、国東に移住して間もない頃にお手伝いした農家さんから仕入れています。魚介類はお隣の豊後高田(ぶんごたかだ)市の高田魚市場で競りに参加しています。国東の漁業組合や漁師さんから直接「こんな魚が入ったよ」と教えてもらうこともあります。新鮮な野菜や魚介類を、生産者からすぐ手に入れられる今の環境は料理人としてプラスなことであり、とてもうれしいことです。
パンは、こちらもkoji noteに登場されたパン工房「HIBINO」さんのパンを使わせてもらっています。食器はパリのお店で使っていた日本人作家さんのものの他に、大分で作陶されている方の食器を徐々に増やしているところです。
――お客様は県外の方が多いのでしょうか。ご近所の方はいらっしゃいましたか。
割合的にはやはり県外の方が多いと思いますが、意外と地元の方にも来ていただいています。お世話になったお向かいさんももちろん来てくださいました。家の元持ち主の方も毎月1回、佐賀から来てくださっているんですよ。「本当に商売ができるのか」と心配されていたので、応援する意味で来てくださっているんだと思います。
父はここを工事する前に見に来てくれて、「いいんじゃないか」と言っていました。オープンしてからも2回ほど来ていますが、相変わらず料理に関しては何も言わないですね(笑)。
――それでは最後に今後の展開について教えてください。
ここが旅の目的地になるような場所にしたいと思っています。日本全国から来てもらい、国東という場所を好きになるきっかけになる店にできたらというのが今の一番の想いです。
国東は、空港は近いですが、他には電車も高速道路もなく、便利なものはあまりありません。ですがみなさん、本当に豊かな暮らしをされているんです。自然と共存しながら、例えば食べ物だったら季節のものをゆっくり味わう。国東に住んでみて、豊かさとは何だろうと考えさせられることが多いです。そんな国東の素朴な魅力を知ってもらい感じてもらえるきっかけの場所になれるように、いいお店にしていきたいと思っています。
PROFILE
川﨑遼平(かわさき・りょうへい)
1989年、広島県出身。如水館高等学校卒業後、東京へ。イタリアンレストラン、フレンチビストロ店などで約8年間修業の後、渡仏。アルザスのフレンチレストランを経て、パリ11区の「Qui Plume la Lune」に入店。デンマーク・コペンハーゲンのレストラン「Relæ」で研修後、2016年、父と共にパリにレストラン「KEN KAWASAKI」をオープン。2017年に料理長に就任。2018年、ミシュランの1つ星を獲得後2022年まで5年連続で星を獲得。2022年「KEN KAWASAKI」を閉め、帰国。2024年5月、大分県国東市に築99年の古民家を改装したオーベルジュ「physis(ピュシス)」をオープンする。完全予約制で、レストランは1日に昼夜各1組、最大6名まで、宿泊はコース料理と朝食込みで最大2名まで。