カテリーナ古楽器研究所 主宰 松本未來さん

大分に暮らすということ 第21回【前編】「今切った1mmでどう音が変化するか」を父と相談しながら作っていました

カテリーナ古楽器研究所 主宰松本 未來

田んぼの中の古民家をすっぽり囲む森。おとぎ話に出てきそうなたたずまいの「カテリーナ古楽器研究所」はヨーロッパ中世・ルネサンス期の古楽器を復元、製作する工房です。大分県の杵築(きつき)市山香(やまが)町で古楽器製作に取り組む松本未來(まつもと・みらい)さんは、アコースティックサウンドを奏でる兄妹ユニット・baobab(バオバブ)のメンバーとして全国的に著名な演奏家でもあります。前編では、先代のお父様が東京から大分へ移住した経緯や、未來さんご自身が古楽器作りを志した背景などについてお聞きしました。 後編「『ここら辺の人』に聴いてもらう音量の古楽器は、ある意味現代にフィットすると思うんです」 文:青柳直子 / 写真:三井公一

始まりは父がアパートで製作したチェンバロ

――1972年、お父様である松本公博(まつもと・こうはく)さんが東京で工房を開設されました。まずは公博さんがヨーロッパの古楽器研究、復元、製作に取り組むようになったきっかけについて教えてください。

父は北九州市出身なのですが、国立音楽大学でピアノの調律を学ぶため、東京へ出ました。調律師を目指していたのですが、学生生活の終盤、ピアノの前身であるチェンバロに興味を抱き、当時住んでいたアパートでチェンバロを作り始めてしまったんです。

――ピアノの調律を学ぶ中で古楽器に興味を抱くというのは自然な流れなのでしょうか。

音楽の歴史、ルーツを知りたくなるというのは自然な流れだと思います。ですが、音楽史の中でもバロック以前、作者不詳のものが多い中世・ルネサンス期の楽器復元にことさら興味を抱いて、そこに取り組みたいというのは珍しいことかもしれません。調律と楽器製作はまた別物ですしね。

カテリーナ古楽器研究所、baobabの松本未來さん

福生の「米軍ハウス」から自然豊かな大分へ移住

――古楽器の研究・復元・製作を始めたのは公博さん独自の興味によるものなのですね。それにしてもアパートでチェンバロを製作されたとは驚きです。

グランドピアノより小さいといっても全長2mもあります。やはりアパートでの製作は難しいということで、米軍横田基地(在日米軍司令部)周辺にある東京都福生(ふっさ)市の米軍ハウス*1に移りました。1960年代後半から70年代にかけて、空き家になった米軍ハウスには多くのミュージシャンやアーティストが移り住んでいたんです。*1 米軍ハウス: 戦後、在日米軍の関係者とその家族のために建てられた住居。横田基地周辺ほかの米軍ハウスは1960年代から日本人にも賃貸されるようになり、若者が多く住んでコミュニティーが形成された。

――米軍ハウスといえば、ホームレコーディングの先駆け、音楽家・細野晴臣氏のアルバム「HOSONO HOUSE」(1973年)が生まれたのも、埼玉県狭山(さやま)市の米軍ハウスです。

そうです。その頃の米軍ハウスは、アーティストたちの共同アトリエのような形になっていました。僕ら一家は工房兼アトリエに1991年まで住んでいました。

――そして、現在の地である大分県杵築市山香町に移住されます。

古楽器が製作されていた当時により近い環境を求めての移住だったと聞いています。両親ともに九州出身なので移転先として九州を考えた時、フランシスコ・ザビエルが西洋文化を広めた大分県が候補に挙がりました。自然豊かな豊後の国で、古楽器が鳴り響いていた可能性は大いにあると考えてのことです。

そこで両親は、工房の移転についての企画書を大分県庁の出先機関に提出しました。当時、大分県では、一村一品運動*2が行われていたこともあり、思った以上によいレスポンスが返ってきたそうです。最初は東京とのパイプがある湯布院や安心院(あじむ)などを見て回ったそうですが、「そういえばもうひとつある」と言われたのが、山香町のこの場所。家の周りを森が囲む「屋敷森」が決め手だったのかもしれません。*2 一村一品運動:元大分県知事の平松守彦(ひらまつ・もりひこ)氏が1979年に提唱した地域振興プロジェクトで、各市町村が特産品を育て地域活性化を図った運動。

杵築市山香町に移住した当時の家族写真。左が公博さん、左から2番目が未來さん(写真提供:松本未來)杵築市山香町に移住した当時の家族写真。左が公博さん、左から2番目が未來さん(写真提供:松本未來)

――移住当時、未來さんは小学生だったとのこと。東京と大分の違いなど、印象的だったことはありますか。

当時、僕は10歳、小学校4年生でした。小さい頃から、父が全国各地で行う楽器のワークショップや公演についていくことはよくありました。中でも九州は両親の実家があり、なじみのある土地でしたので、「旅の一環で来て、そのまま住み着いちゃった」という感じでした(笑)。東京と比べて学校のクラスが少ないな、みたいなことはありましたが、比較的順応は早かったと思います。上の妹は当時小2でしたが、下の妹は1歳だったので、大分ネイティブですね。

工房と同じ敷地内に立つ母屋。現在、未來さんは妻、娘さんと一緒に近くの別の住居で民泊を営んでおり、この母屋には未來さんのお母様が住んでいる工房と同じ敷地内に立つ母屋。現在、未來さんは妻、娘さんと一緒に近くの別の住居で民泊を営んでおり、この母屋には未來さんのお母様が住んでいる

引っ越しに際しては、家財道具から楽器から木材まで、10tトラック数台分にもなりました。

木材は十分に乾燥させないと楽器製作に使えないので、伐採してすぐの木材はストックする必要があります。当時、父は東京の武蔵野周辺の開発で切られた木を確保してストックしていたんです。西洋楽器にはヨーロッパの木材を使うことが当たり前とされていた時代でしたが、父は日本の樹種でヨーロッパの古楽器を作ろうと、模索していたんです。桜、カエデ、ケヤキ、桑、栗、ツゲ等のあらゆる木材でバイオリンの先祖・レベックの試作を重ねました。その木材の一部は乾燥を経て、現在も使っています。

工房の梁(はり)を使って木材が保存されている工房の梁(はり)を使って木材が保存されている

――カテリーナ古楽器研究所では、演奏会などのイベント活動もされていますが、未來さんも小さい頃から演奏に興味があったのでしょうか。

古楽器って種類が多いので、複数の楽器の組み合わせで成り立つことも多くて。僕も楽器の担い手として小さい頃からステージに立たされていました。まずは太鼓、鐘、歌から始まって、バイオリンより弦が少ない3弦だけの弦楽器を弾いたりしていました。

自分から興味を持った初めての楽器はチェロで、中学生の時です。うちの工房には現代楽器があまりなかったので、九州交響楽団の方から譲り受け、教わりました。妹はバイオリンを始めたので2人でインベンション*3を弾いたり。お互いが練習相手でしたね。その後、僕はギターを始めるのですが、その時に妹がずっといて、現在でも続いているbaobabの活動につながっていきました。*3 インベンション:バッハが作曲した鍵盤楽器のための小品集が有名。ピアノの練習教材として使われる。

工房の梁(はり)を使って木材が保存されている工房の梁(はり)を使って木材が保存されている

世界の工房を巡る旅を経て、楽器作りの道へ

――未來さんがカテリーナ古楽器研究所を継ごうと決意されたのはいつ頃ですか?

父親が1代目の物好きで始めたことなので、家元みたいに「継がなきゃいけない」というような感覚はなかったんです。ですが、音楽に興味を持つとか物作りが好きだというのは子どもの頃からあって。楽器に限らず「何かを作る人になりたい」と思い、小学生の時、文集に書いた記憶があります。

カテリーナ古楽器研究所、baobabの松本未來さん

――現在は、先ほども話題に出た、妹のMaikaさんとのアコースティックサウンドユニットbaobabの活動もされていますが、元々、演奏家よりも「作る人」になりたかったのですか。

そうですね。母屋に家族で暮らしていて、すぐそばに工房があるという環境でしたから、楽器を作るというより、工作をする場所として、工房は遊び場のひとつだったんです。思春期になって音楽に興味を持って、「自分で弾きたい」と思うようになったのですが、「物を作ることが好き。音楽が好き。あれ、じゃあ楽器作り?」みたいにつながっていったんですよね。

――なるほど。跡を継ぐことは環境を見ても、ご自身の興味対象を見ても必然だったように思われますが、後継者宣言はされたのですか?

「工房に入ります」と言って、父に確認はしたと思います。父は「メジャーな物を作っているわけではないから、いわゆる職人気質で黙々と作ればいいわけではない。ひとつずつこれは何かということを説明して紹介する能力も必要だ」とよく言っていました。そういう父の考えの影響もあり、20歳の頃、「楽器工房を巡る旅」をしたんです。

というのも、自分が作るのは古楽器に限らず、ギターでもバイオリンでもいいんじゃないかと思っていたからです。旅では、ギターをはじめ、モロッコのウードという民族楽器、オランダではリュートという古楽器の各職人さんたちを訪ねて歩きました。特にオランダでは、家具職人と楽器職人が同じ工房で技術や塗料をシェアしていて、昔からそうだったということも含めて多くのことを聞き学びました。

父と並んでこの工房で作業しながらも、古楽器を復元する道だけでなく、今あるものを自分なりの形で提供する道や、新しい楽器を生み出す道など、あらゆる道を10年ぐらい模索しながら製作していたという感覚です。その結果、演奏活動も含めていろいろな経験がつながり、古楽器を作ることになったわけですが、そうした模索を父が寛容に受け入れてくれていたのは、もしかしたら自分にもそうやってたどり着くまでの過程があったからなのかもしれないと思っています。

カテリーナ古楽器研究所、baobabの松本未來さん

父と並んで楽器を作った約15年間、楽器作りの「基本3要素」を探求しました

――2018年10月に公博さんが69歳で亡くなられて以来、未來さんはおひとりで工房に立たれています。改めて公博さんはどのような職人であり音楽家でしたか。

一言で言うと、エネルギーの塊。エネルギッシュな人です。日本における古楽器製作の開拓者でありますし、よくゼロから始められたな、と思います。僕はある程度、基盤がある中でスタートしているので、その部分は真似できることじゃないなと思います。

工房の窓際には父・公博さんの写真が飾られている工房の窓際には父・公博さんの写真が飾られている

僕が工房に入ったのが2003年ですから、約15年間、肩と肩を並べて作りながら、話しながらの時間がありました。父はよく話す人でもあったので、楽器作りの根本についてはしっかり教え込まれました。僕は楽器の造形から興味を持ったので、きれいに作りたいという思いが強く、形ができていくことに喜びを感じるというところからスタートしたのですが、父には「きれいに作るのは大前提。今切った1mmによってどういう音の変化が生まれるのかを想定しながら作業を進めなさい」ということをよく言われました。

物作りの基本には「美しさ」と「耐久性」がありますが、楽器にはこの2つに加えて「音がいい」ことが求められ、これが楽器作りの基本の3要素となります。ただ耐久性を上げると音にはマイナスになることもあり、逆にギターなど現代楽器でも言われますが「パンとよく鳴る楽器は寿命が短い」、つまり音がよくても耐久性がないということもよくあります。さらに、時間をかけてよく鳴るようになる楽器もあります。育っていく過程も考えながら、耐久性のピークをどこにもっていくかというのは非常に難しい問題です。

「この木を使ってみたら軽めかな? 重めかな? 硬い? やわらかい? だとしたらどうする? 3mmの予定だったところを2.5mmまで削ってみる?」みたいなやりとりを父と常にしていたことが思い出されます。

それから、父は意外と不器用で、僕の方が器用なんですよ(笑)。古楽器は造形にこだわったものが多く、工芸品としての美しさがあるんですよね。当時、人々が音楽を聴くには生演奏しかなく、音が出る楽器というものは神聖なものであり、また魔除けの意味でもネックの部分に獅子や人間の頭をかたどったり、デコラティブ(装飾的)な物が多かったんです。現代楽器になるとこれらがそぎ落とされ、機能性、音重視になっていきます。

例えばこれはルネサンスギターなどのサウンドホールにはめるロゼッタというものですが、細かい透かし彫りになっているんです。父はこのような細かい作業が苦手だったようで、「これはお前が彫れ」と言われ、任されていたところからハマっていきました。お客様などから「ロゼッタの部分だけください」と言われることもあって、ここだけ別の商品にならないか考えたこともあるのですが、不思議なものでこれだけ彫っていると嫌になるんですよ(笑)。楽器の一部と思うからこそ彫れる。楽器職人の性みたいなものかもしれません。

  • 製作中のロゼッタ。職人の技術が光る、細かく美しい造形に目を奪われる製作中のロゼッタ。職人の技術が光る、細かく美しい造形に目を奪われる
  • サウンドホールにロゼッタがはめ込まれた状態サウンドホールにロゼッタがはめ込まれた状態
松本未來(まつもと・みらい) カテリーナ古楽器研究所 HP
https://www.catherina1972.com/

PROFILE

松本未來(まつもと・みらい)

1982年東京生まれ。父の松本公博が東京都福生市の米軍ハウスに構えたヨーロッパ中世・ルネサンス期の古楽器を復元・製作する「カテリーナ古楽器研究所」の工房を遊び場に、数多くの古楽器に囲まれながら育つ。1991年、大分県杵築市山香町に一家で移住。2003年、カテリーナ古楽器研究所に入り、それから15年間、父と共に古楽器の研究・復元・製作にあたる。2018年より主宰。2004年、妹のMaika (歌 / fiddle) と共にアコースティックサウンドユニットbaobabを結成。古楽器演奏ではシトール、ギターン、ハーディー・ガーディー等を担当する。