「紺屋そめかひ」工房主辻岡 快
――大分県立芸術文化短期大学日本画専攻科ご出身の辻岡さんが、藍染めをお仕事にされたのはなぜでしょうか。藍染めとの出合いについて教えてください。
私の実家は元々呉服屋で、父母の代で婦人服を扱うようになりました。父は高校時代美術部にいたくらい絵が得意で、お店の看板を描いたりしていたんです。私が高校1年生の夏休みのこと。家で何もせずだらだらと過ごしている私を見かねた父が、画材一式を私に渡して、庭にあった植木鉢の蘭を「デッサンしてみらんか?」と言うんです。父が見本を見せてくれたのですが、木炭紙に木炭で描いた線が指の腹でこすると面になり、次に食パンの白い部分を丸めて先を細くして線を引くとそれが白い線になるのが面白くて。夏休み中ずっと木炭デッサンをしていました。
私は福岡県飯塚市の出身で飯塚から博多(福岡市)の高校に通っていました。夏休みが明けてから、JR博多駅前にあるカルチャーセンターの石膏デッサン講座に通うことにしたんです。その講座の先生が美大専門の予備校で日本画の先生もされていて、「高校卒業後の進路として美術大学という選択もある」ということを教えてくれました。それで日本画に興味を持ち、美術館の日本画コーナーに行ったら、色の美しさに感動してしまって。日本画って油絵みたいなテカリがなくてマットなんですよね。岩を削ってつくった粉を一面に張り詰めたようなマットさなんです。
日本画の制作には古くから鉱石や岩石からつくられる岩絵具(いわえのぐ)というものが使われてきたことを知り、福岡市内の繁華街天神(てんじん)の画材店で出合ったのが藍銅鉱(らんどうこう)からつくった群青(ぐんじょう)色の絵具です。岩絵具には人造と天然があり、天然の鉱石からつくられたものはとても高価で、この藍銅鉱も小指ほどの大きさで5万円という高値でした。ほかにもさまざまな鉱石を原料とする絵具がありますが、私はとにかくこの「群青」の美しさに心奪われてしまったんです。
3浪の末、目指していた東京の美術大学はあきらめざるをえなくなり、大分県立芸術文化短期大学美術科美術専攻に入学して間もない1年生の春のことです。たまたま工房棟を通ったら、通路で染色科の先生が藍染めをされていたんです。藍染めのやり方なんて当時は何も知らなかったのですが、興味本位で見ていました。
染料に浸けた白い布を先生が引き上げた瞬間、白が黄色になり、その後、緑色に変わり、深い青色に変化していったんです。時間にして約30秒。空気に触れて酸化することで化学変化を起こしたんですね。その布を水洗いするとさっぱりとした水色になります。その一連の工程を繰り返していくと、青がどんどん成長していくんですよ。その様にものすごく感動してしまって。今でも思い出すと鳥肌が立って涙が出そうになるほどです。その時、私は白いTシャツを着ていたので「先生、染めさせてください!」とお願いして、その場で染めさせてもらいました。
それから、夜になると工房棟に通う日々が始まりました。短大の2年生の時に、卒業後、副手(助手)になれたのでプラス1年で計3年間ですね。私が在籍していたのは美術科の中の日本画専攻だったのですが、その間、ほとんど染色をしていました。藍染めのほかにも、いろいろな染色法を試しました。学校内にヤマモモやエンジュなどの木があったので、その樹皮をこそっと持ってきて染料にしたりもしました(笑)。
ほとんど本を見ながらの独学でしたが、ずっと染色をやらせてくれていた染色科の吉村正郎(よしむら・まさお)先生が、卒業間際に基本的なことを教えてくれました。吉村先生には本当にお世話になり、自分の結婚式にも来ていただきました。
――ほとんど独学とは驚きです。短大にいらっしゃる間に「染色家になる」と決めたのですか。
私は今も自分のことを「染色家」とは思ってないんですよ。「したいことをしてる人」って感じでしょうか(笑)。あえて肩書をつけるとしたら「紺屋」ですね。紺屋というのは藍染めに限らず染物全般をする染物屋という意味です。昔は着物が高かったから染め直して孫子の代まで着るという文化がありましたよね。なにも珍しい職業ではなく、町の八百屋さん、町の紺屋さん、という位置づけです。
短大の卒業後もほとんど独学ですが、どうしても分からないことはやっぱりあるので、徳島県の紺屋さんに行って学ばせてもらったこともありました。糊(のり)染め*1の技術は石川県の加賀友禅の作家さんのところに行って見せていただきました。特別に教えてくれるわけではないのですが、「見てていいよ」と言ってくださったんです。*1 糊(のり)染め:もち米を糊として使った染物の技法のひとつ。糊を塗った部分は藍が着色されない。
――辻岡さんは自ら育てた藍を使って藍染めをされていますが、紺屋として独立した時に藍の栽培も始めたのですか。
そうです。藍染めをするんだったら、種から藍を育てるところからやりたいと最初から思っていました。藍には種類があって私が育てているのは蓼藍(たであい)。蓼藍の種をもらって育て始めてからもう20年。今では毎年、種取りをしています。藍染めに使われる藍にはいくつか品種があって、短大時代、染色科の吉村先生が使われていたのはインド藍という品種です。
短大が終わって副手をしている頃に、近くに畑があって工房ができる広い空き家を大分県内で探し始めました。
大分県立芸術文化短期大学に進学したのはとにかく学費の安さが決め手だったのですが、子どもの頃、よく大分には旅行に来ていたんです。金鱗湖(きんりんこ)が大好きで、由布院あたりはよく行っていたので、なじみの土地という感覚はありました。短大は大分市内にあって、学校のすぐそばのアパートに下宿していたのですが、休みの日にはバイクに乗っていろんなところに出かけました。大分って山あり川あり、海もあってもう最高じゃないですか。だからずっと大分に住み続けたいと思い、親にも伝えていました。
県庁で空き家情報を教えてもらい、いろいろ回っていたんです。最初は国東(くにさき)市や九重(ここのえ)町で探していたのですが、条件に合う物件がなく、最後に回ったのが大野町(現豊後大野市)でした。その時は吉村先生も一緒に来てくださったんですよ。大野町の空き家に行ったら、なんと町長と近隣の方が集まってだんご汁をつくって待っていてくれたんです。「若い美術の人が来るぞ」って話になっていたらしく、大歓迎してくださって。吉村先生も「ここにしなさい」というので、そこに移り住むことにしました。
家からは少し離れていましたが、大家さんが畑も貸してくださることになりました。独立当初はいきなり藍だけでは食べていけないので、テレビ局やお弁当屋さんなどでアルバイトもしていたんですけど、アルバイトばかりで疲れてしまって。「本分を忘れているな」と思ったのでアルバイトはすっぱりやめることにしたんです。
するとちょうどそのタイミングで町役場から「教室をしないか」というお誘いをいただいて、美術の教室と、あとは時々農家の小作人をして収入を得ながら、藍染めに集中することができました。その後、町内で閉校になった小学校を工房として使わせてもらえるようになり、大野町にはトータル13年いました。
大野町にいる頃に妻と出会い、結婚しました。妻は私と同じ大分県立芸術文化短期大学のデザイン専攻出身なのですが、在学中に出会ったわけではなく、私が大野町で工房を始めてから、私の活動に興味を持って見に来てくれたのがきっかけです。私たちは大野町が大好きで、ずっと大野町にいたかったのですが、工房として使っていた廃校に企業が誘致されることになり、立ち退かなくてはいけなくなったのです。
――大野町で工房を構えて13年。その後、現在工房を構えている竹田市の元酒蔵に移ってこられたのはどのような経緯ですか。
移転先をどうしようかという頃、竹田市役所の職員さんがいらして「竹田に来ませんか」と声をかけてくださったんです。当時の竹田市長は地域活性化に向けてユニークな取り組みをし、全国的にも注目を集めた首藤勝次(しゅとう・かつじ)さんでした。2012年、竹田市は九州北部豪雨災害で大きな被害を受けたのですが、その翌年の地域活性化策として作家や工芸家を呼び込もうという動きがあったんです。そうした中で、この国登録有形文化財である元酒蔵を工房として使わせてもらえることになりました。
工房としての条件は、水質の良い井戸水、風通しの良さ、幅広の生地も染めることができる大きめの空間があること。それから近くに畑があること。
染めて乾かすという一連の作業の中で乾きやすさは必要なのですが、湿度が低すぎると糊に使っているもち米が割れてきてしまうんです。このように矛盾している条件を満たす物件はなかなかないのですが、この元酒蔵はまさにぴったりの場所でした。しかも車で5分ほどのところにある約1500坪の畑も使わせてもらえることになったんです。
――工房に最適な物件を竹田市から紹介されたのですね。しかし大野町から竹田市に移住するとなると、13年かけて作った畑もまたイチからということになりますね。
そうなんです。畑をつくるというのは土をつくるということですから、それをイチからやるのは大変なことです。
大野町に移住した当初はいわゆる慣行農法で藍を栽培していました。窒素・リン酸・カリといった化成肥料を与えて、藍以外の草は邪魔者なので除草して。アブラムシがすごかったので農薬もスプレーしていました。でもそうやって栽培した藍は葉っぱも薄いし、日光に当たると葉がへしゃるし。なんでかなと思っていたんですよ。
そんな時に出会ったのが僕の有機農法の師匠・安藤百代(あんどう・ももよ)先生です。安藤先生は元小学校の教師で、農家ではなくご自分の食べる分の野菜を有機栽培で育てている方でした。土のつくり方、肥料の与え方、有機農法の基本や考え方を教えていただきました。
――慣行農法と有機農法の違いはどのようなところにあるのでしょうか。
まず慣行農法はその作物、例えばトマトだったらトマトをつくるための作業です。トマトが好きな化成肥料を与えて、それ以外の草や虫は除去します。一方で有機農法はその植物、私の場合は藍が気持ちよく育つ土を育てるために土の中の生き物、微生物たちの循環をつくることに重きを置きます。現在、私が行っているのは循環農法+有機農法と言った方がいいと思います。
肥料は化成肥料ではなく「ぼかし*2」という有機肥料を使います。現在、「ぼかし」は市販のものを使用していますが、有機農法を始めた頃は、自分でつくっていました。土をふかふかにするための堆肥には、おがくずなどを発酵させたものを使っています。*2 ぼかし肥料:米ぬかや魚粉といった有機物を発酵させてつくる肥料。
――そのように手間暇をかけ、無農薬有機肥料で栽培した蓼藍を使って藍染めをされているのですね。原料の藍の栽培からされている紺屋はやはり少ないのでしょうか。
そうですね。滋賀県に1軒ありますが、他はあまり聞いたことがありません。また蓼藍には白花種と赤花種があり、一般的には白花種を使うことが多いのですが、私は赤花種を栽培しています。何度も染めていると少し赤みがかった青になるのが気に入っています。
私どもは藍染めで最も重要なのは大元の原料になる藍だと考えています。その藍を栽培し年々より優良な原料をつくりたいと考えているので、藍の栽培はとても大切な作業です。竹田に移住してきた当初は1500坪の畑全体で栽培していたのですが、あまりにも大変だったので、現在は畑を3分の1ずつに分けて輪作し、3年で回しています。毎年、藍染めの染料の元である「すくも(蒅)*3」が200kgから300kgほどつくれるぐらいの収穫量を確保できています。*3 すくも(蒅):藍染めの原料。藍の葉を乾燥、発酵させることですくもができる。藍の葉はすくもにすることで、生の葉や乾燥葉では染まらない濃い色を得ることができる。
――藍染めの作業と藍の栽培は同時進行なのでしょうか。年間のスケジュールはどのようなものですか?
3月に種まきをして、6月から7月の梅雨の時期にかけて1回目の刈り取りをし、8月末頃に2回目の刈り取りをします。10月頃に花が咲き、11月に種ができます。刈り取った葉は乾燥させて粉にして、11月頃から3カ月かけて発酵させ、2月から3月頃、染料の原料となるすくもが完成します。
畑仕事、すくもづくりは1年がかりなので、染色作業と同時進行です。晴れた火曜・木曜は畑の日といった具合に、だいたい曜日で作業を決めています。
――染料の原料すくもは、乾燥して粉にした藍の葉を発酵させてつくるのですね。
そうですね。まず刈り取った藍の葉をビニールハウスに広げて乾燥させます。それから乾燥させた藍の葉を、踏んだりふるいにかけたりして粉にします。粉にした葉は工房へ持ち帰り、井戸水を水打ちし、2日に一度かき混ぜます。そうすると葉についている常在菌の作用で自然に発酵し始めます。水の量が多すぎると腐敗してしまうので、何度も失敗しながら適量を探っていきました。
葉の色は最初、青っぽい緑色なのですが、発酵すると青みがかった茶色になります。70℃ぐらいまで上がった温度が自然に下がったところで、すくもの完成です。
――すくもからどのように染料をつくるのでしょうか。
すくもが完成したら、すくもを染料にする「藍建て」の工程に入ります。私の工房では天然灰汁(あく)を使った「天然灰汁建て」を行っています。
カシの木灰にお湯を入れると、翌日には上澄みの透明な液が出てきます。この透明なアルカリ性の液が灰汁です。始めに消石灰を投入し灰汁を加えて、すくもを泥状に練ります。最後に日本酒を加えます。消石灰もアルカリ性で、すくもの発酵に必要な菌以外の菌を殺します。この時のpHは11前後で、強めのアルカリ性ですね。すくもの発酵を促すために日に何度か攪拌しながら、灰汁を追加投入していきます。毎日攪拌していると、だんだんと泡の色が水色・青・青金と変化していき、だいたい2週間ほどで染められるようになります。そしてこの液の上に浮かんでいる泡のことを「藍の華」といいます。要するにアルカリ性の液体に、すくもの中に隠れていた青の色素が溶け出してくるんですよね。
日本酒がスターターになっているのですが、鹿児島では焼酎、沖縄では泡盛を使っているそうです。お酒を入れるのは結局、ブドウ糖とアミノ酸を加えるということだと思うのですが、お神酒(みき)の意味合いもあるのかなと私は考えています。
華の状態、香りや手触りを確かめながら、ちょっとへたり込んで弱くなっている時には、活性化を促すためにブドウ糖や糖蜜などを加えることがあります。茶色がかったり香りが変化してくることがあるのですが……勝手に風邪をひいたって言ってるんですけど(笑)、風邪をひくと、雑菌が増加しているので消石灰をやって殺菌します。一度藍が建つとだいたい3カ月ほどで死んでしまいます。そうすると全部捨てて、新たに建て直します。
ちなみに、灰汁を取る時の木灰はそれぞれの紺屋さんのマル秘事項なのですが、私はカシ灰を使用しています。そして灰汁を取った残りのドロドロの灰は唐津焼の職人さんに回しています。陶器の表面に塗る釉薬(ゆうやく)になるんですよ。
――素晴らしい循環ですね。そして「藍の華」の青は本当に美しく、輝くような群青色ですね。
ちなみにこの「藍の華」はニカワに溶かして顔料としても使われていたらしく、昔の浮世絵の空の色などにも使われたそうです。実際に私も顔料として使って絵を描いたことがあるのですが、青ではなく、くすんだ墨色になるんですよ。
――それでは実際に染めの工程を見せていただけますでしょうか。
はい。藍染めでは化学繊維の布は染まらないので、綿や麻などの自然素材の布をまず水に浸けます。次に染料に沈めていきます。ムラができないように、静かにゆすりながら広げて約5分間待ちます。引き上げると黄緑がかった色に変化しています。そして流水で洗います。洗い終わった布を引き上げると最初は爽やかな水色、その後酸化して青が濃くなっていきます。仕上げたい色や素材によってこの工程を何度か繰り返します。
最後に干します。私はこの濡れた時の色が好きなんです。今回は1度しか染料に浸けていないので、浅葱(あさぎ)色に仕上がる予定です。ちなみに藍染めの一番薄い色は「甕(かめ)のぞき」っていうんですよ。生地が甕の中をのぞいてすぐに帰ってきたという意味です。色の名前が面白いでしょ。
――わずか数分の間に現れるそれぞれの段階の色の美しさ、そして化学変化の不思議さに心奪われますね。
そうですね。ワークショップに訪れた子どもたちも最初は独特のにおいが気になるようですが、染料に浸けて引き上げた瞬間からその面白さに夢中になっています。私もこの染めの工程が一番好きです。
――種から育てた藍を収穫して発酵させて染料をつくって。染めの工程は1年がかりで手間暇をかけた作業の最終段階なのですね。
はい。本当に最終の段階です。一般的な紺屋さんでは市販のすくもを使っているところが多いと思います。私たちにとってやはり一番大切なのは植物の藍です。先ほども言いましたが、藍の出来がそのまま色につながるので、藍の葉もすくもも、人にはお譲りできない、とても大切なものです。
――「紺屋そめかひ」さんの商品にはどのようなものがありますか。
オリジナル商品、オーダーメイド商品、そして染め直しですね。
オリジナル商品は暖簾、手ぬぐいやストール、クッションカバー、婦人服などです。基本的に図案も私が手掛けているのですが、つい欲張って柄を詰め込み過ぎてしまうので、それをデザイナーである妻が調整してくれています。服に関しては妻とパタンナーさんが型をつくり、4人の縫製士さんが仕上げてくれています。
毎年11月頃、工房でオリジナル商品の展示会を行っています。百貨店に出店したこともあったのですが、やはりこの工房で見ていただきたいというのが私たちの思いです。
オーダーメイド商品にはお店の暖簾や、バンダナなどの企業のノベルティグッズが多いですね。
「紺屋」である限り、染め直しはぜひ広めていきたい文化なので、最近少しずつお客様が増えてきてうれしく思っています。綿や麻100%のTシャツやシャツ、ワンピースなど、着ているうちに着心地がどんどん良くなったお気に入りの衣類ってありますよね。ちょっと汚れたからといってあきらめるのではなく、ぜひ染め直しに挑戦してもらえたら、と思います。
PROFILE
辻岡 快(つじおか・かい)
1977年、福岡県飯塚市生まれ。2000年、大分県立芸術文化短期大学美術科美術専攻(日本画専攻)卒業後、1年間専攻科で副手を務める。在学中より藍染めの虜になり、卒業後は大野町(現豊後大野市)で工房を立ち上げ染色の道に進む。藍の栽培は独自で研究し、毎年畑で有機農法により栽培。収穫した葉をすくもにして天然灰汁発酵建てで染めている。藍染めのほかにも植物染めや糊を使った型染め、筒描きでの作品・商品制作を行う。