「Bepper’s Tavern(ベッパーズ タバーン)」ディレクター池田 真一
――大学を卒業後に渡米されて、2022年に帰国するまでの30年以上をニューヨークで過ごされたのですね。アメリカを離れるのは寂しくなかったですか。
人生の半分以上を過ごした場所ですからね。ブルックリンに住んでいたので、帰国のときはマンハッタンの夜景とか見ながら、「もうすぐここからおらんくなるのかなあ」ぐらいはさすがに思いましたよ。でも50歳で仕事を引退して別府に帰るということは、アメリカに行ってわりとすぐに決めていたことでした。周りにも宣言していたしね。
――50歳で引退しようと決めたのはなぜですか。
だって、からだが動く元気なうちに遊びたいじゃないですか(笑)。やりたいことのイメージはどんどん湧いてきていたし。
――どんなことをやりたいと考えていたのですか。
引退したら、別府の恵まれた自然を「自給自足」で自分なりに楽しみたいと思いました。まずは釣り。それから、自分で野菜を育てて、山で猟をして。イノシシや鹿。自分で獲って、自分でさばいて、自分で食べる。それをやりたかった。
――ずいぶんワイルドですね。
スーパーマーケットに行かないだけですよ(笑)。
――狩猟の免許をお持ちなんですね。
銃猟の免許と、わな猟の免許も持っています。今年は猟期間は終わりました(本取材は4月に実施)。でも自分は害獣の駆除員(有害鳥獣駆除従事者)でもあるんで、猟をする期間はもう少し幅があります。おとといは山菜を採りに行きました。山菜てんこ盛りですよ。タラの芽、ウド、ふき、4月に入るとワラビもうまい。大分、別府、最高ですよ。
――別府には高校を卒業するまでいらっしゃったのですね。どんな思い出がありますか。
別府の商店街のごちゃごちゃした中で育ちました。小学生のときから高校生まで剣道をやっていました。10年間、地元の道場に通って。剣道2段までとりました。中学からはバンド活動も始めて、ギターに熱中していました。
別府を離れたのは愛媛県松山市の大学入学から。そのときはもう剣道をやめて、夜、アルバイトを始めたのがライブハウスでした。バーや料理の仕事を経験したのはそこからです。アメリカからミュージシャンを招いてライブ演奏をやっていました。ミュージシャンたちとのコミュニケーションの中で英語も学びました。
――その経験がきっかけになって飲食業やバーの仕事に興味を持ったのですか。
いやあ。そうではなかったです。当時進みたいと思っていたのは音楽の道です。かなり真剣にギターに取り組んでいました。アメリカンブラックミュージックが好きで、松山でもバンド活動をしていました。
――そのバンドでライブハウスのステージにも立ったのですか。
やらせてもらったこともありましたけれど、そもそも普段アメリカのかなりのレベルの一流ミュージシャンが演奏していましたからね。あくまでも僕はお店のスタッフとして、フロアで働いていました。彼らは芸能ビザを取得して来日していて、有効期限の関係で半年でメンバーが入れ替わるんです。
一緒に働いていたら、ミュージシャンとも友達になるじゃないですか。で、アメリカに戻った彼らから、「ロサンゼルスからサンフランシスコまでツアーが決まったけれど、ギター弾きにくるかい」と言われたんです。それが大学1年の終わりで、そのときに行ったのが初めてのアメリカでした。
――最初の渡米はミュージシャンとして、ロサンゼルスだったんですね。
そうです、3カ月間くらいだったかな、ロサンゼルスからサンフランシスコまで転々としながら、クラブなどでいろんな曲を演奏しました。ブラックコンテンポラリー、ソウルとかファンクとか。60年代、70年代のモータウンの曲などですね。
――3カ月というのは学生にとっては長いですね。大学は無事に卒業できたのですか。
アメリカに行っている間に新学期が始まっていました。結局、大学には2年長く通うことになりました(笑)。帰国したらアルバイト先が店を閉めていたんです。そのとき、松山市内のあるバーのマスターに拾ってもらいました。桑原泰彦(くわばら・やすひこ)さんという方で、その人が僕のバーの師匠です。
大学3年の頃からまる4年間、毎日そこで働きました。師匠からバーの仕事を厳しく教えていただいて、真剣に学びました。店名は「リスキービジネス」です(笑)。その師匠は去年他界されて、今年、関係者で偲ぶ会があり松山に行ってきました。
――それでは、初めてニューヨークに行ったのはいつですか。
実は1991年、大学2年の頃に1人でジャマイカに演奏旅行に行ったんです。直行便がないので、ニューヨーク経由で行きました。1週間くらいニューヨーク、そのあとジャマイカに1カ月くらい。またニューヨークに戻ってきて2週間くらい滞在しました。初めてのニューヨークは面白かったですね。映画などを観てイメージするような昔のニューヨークの雰囲気がまだ残っていました。ここはいいなあと思った。それがニューヨーク暮らしのきっかけですね。
――ニューヨークとの出合いも音楽がきっかけだったんですね。
そうですね。1995年に大学を卒業して渡米しました。別府の幼なじみの住むビルに泊めてもらうということで、コンビニ袋1個で飛行機に乗るといった気軽な感じでした。ギターとかは別便で友達の家に送りましたけど。
音楽がやりたくてニューヨークに行ったものの、音楽の仕事はすぐには見つからず。とりあえず仕事をしないと食べていけないので、最初は友達に教えてもらったお店でウエイターの仕事を始めました。イースト・ヴィレッジの「VILLAGE YOKOCHO(ヴィレッジ横丁)」と呼ばれていた場所でした。
1階に24時間営業のアメリカンダイナーと寿司屋があり、2階に焼き鳥屋さんとコリアンバーベキュー屋さん。そこを通り過ぎると「Angelʼs Share」がありました。トニー・ヨシダ(好田忠夫)さんというオーナーが経営する飲食関係のモールのような場所です。
――その「Angelʼs Share」で仕事を始めたのですね。
いえ、最初は焼き鳥屋さんのウエイターに雇ってもらったんですよ。とりあえずそれで生活費は稼げるということで、ニューヨークでの生活がスタートしました。それから1年くらいして好田社長に呼ばれました。「君はバーができるのか」って。まあ、松山でライブハウスと桑原さんのバーで合わせて6年間やっていましたからね。そう言ったら、「明日から『Angelʼs Share』でバーテンダーをやってくれ」と。
本当はバーはやりたくなかったんですよ。でも、もう無理やりですよ。仕事がなくなるのは困るし、「はあ」としか返事のしようがなかった。「Angelʼs Share」って、看板も出さない隠れ家的なバーだったんです。当時は客が入らず閑散としていて、カラオケバーでも始めようかなんて話も出ていたくらいです。
――ともかくも、ここでいよいよ「Angelʼs Share」ですね。
はい。そこで松山の師匠に習ったとおりの作法でバーの仕事をスタートしました。ジャパニーズスタイルのバーテンディングを打ち出したお店は当時、ニューヨークでは初めてだったかもしれません。当時のスタッフは全員日本人でしたけれど、バー経験者はいなくて。1993年のオープン当時には経験者がいたそうですが、すぐにいなくなってしまったと。僕は3代目のバーマネージャーでした。
――当時、お店の独自ルールが、ニューヨーカーの間で話題になったそうですね。
好田社長が作ったルールです。店の入り口に紙に書いて貼り出していました。
・お店の中ではお静かに
・立ち飲みなし
・葉巻とパイプはお断り
・4人連れまで、5人以上はお断り
・最低1人1品注文してください
美味しいドリンクを静かにゆっくり楽しんでもらうというコンセプトです。でも、お客さんの中には貼り紙を破る人もいて。また貼り直して。それでお客さんと喧嘩にもなりますしね。現場は大変でしたよ。
ニューヨークの歴史ある一流ホテル内でもこんな感じでやっているバーがありました。でもカクテルのレベルはどうかと言うと、うーん、という感じでした。そんな由緒あるバーにゲストバーテンダーとして招かれたこともあって、うれしかったですね。
1998年に開店5周年を記念して「Angelʼs Share」のオリジナルカクテルを作ろうという話になりました。メインは洋酒ベースでしたが、日本酒や焼酎をベースにしたカクテルも考えてメニューに載せてみたところ、人気が出ました。
――「Angelʼs Share」のカクテルはニューヨークのバーシーンに影響を与えたと、当時を知る人から聞きました。
現場の者からするとそれはよく分からなかった。でも、その頃から、ニューヨークのバーでもオリジナルカクテルを出す店が出てきたと思います。「オリジナル」「クラフト」「シグネチャー」と呼び方はいろいろ。三つ星などのレストランに併設するバーでも、それまではワインが中心でしたけれど、独自のカクテルも出すようになったのが1990年代後半ですかね。
渡米して3年目くらいかな。社長のアドバイスもあり、グリーンカードを取得しました。それから結婚もしました。そうなるともう音楽をやっている場合じゃないぞと。その頃からバーテンダーの仕事も面白くなっていました。
たいていバーは午前4時にはお店を閉めるけれど、「Angelʼs Share」はそのあとも開けていて、お店を終えたバーテンダーたちが集まってきてくれて。ザ・プラザ・ホテルのバーのスタッフとか、ケンタ(「Bar Goto」の後藤健太さん)とか、サシャ(「MILK & HONEY」のSasha Petraskeさん、故人)とか。サシャは「俺もこういうバーをやりたいんだ」と言って、そのあと本当に自分の店を「Angelʼs Share」のような雰囲気でオープンしましたね。同業同士の交流はけっこう活発でした。
――「Angelʼs Share」でバーマネージャーを務めたあと、2007年に独立されたのですね。
はい。ニューヨーク市内のトライベッカで、地下にジャズバー「B♭」、1階にレストラン「SHIGRE(シグレ)」をオープンしました。
――「Angelʼs Share」のような店内ルールは踏襲されたのですか。
いえいえ。アメリカの一般的な自由な雰囲気にしました。「B♭」では週3回のジャズライブ、そしてカクテルと料理にこだわりました。料理とドリンクとの組み合わせをちゃんとやりたかったんです。最初はバーテンダーをやっていましたが、日本人シェフの帰国後は、1階のキッチンに入り料理に集中して。料理も松山での経験が活きました。
アメリカ人はジャパニーズプレイスに来ているという気持ちなんです。日本酒カクテルや焼酎カクテル、料理も和なものを期待していて。ニューヨークにはいい魚が入ります。ボストンのマグロ、ロングアイランドにもいい魚があがります。技術があればいい魚料理が出せました。ロール(巻物)や刺身なども人気がありましたよ。
――ニューヨークでご趣味の釣りの方は。
いい釣り場があります。青物だとストライプドバス(ニューヨークの州魚)やブルーフィッシュ、夜釣りではヤリイカ、スルメイカなど、たくさん釣れますよ。アメリカの人がイカ釣りをあまりやらないのは、さばけないからかな。フリットとか食べるのは好きですけどね。ブルックリンからは釣り船も出ます。ロングアイランドの先っぽのモントークではいいヒラメが釣れます。ニューヨークで一番美味しいローカルフィッシュはTautog(トータグ)、ブラックフィッシュとも呼ばれるベラとブダイをミックスしたような魚で、蟹とかを食べて育つから歯ががっちりしています。
朝までお店をやって、閉めてから釣りに出発。フライフィッシングもやりました。市街地から車で2時間くらい走ったところにキャッツキルという村があって、アメリカのフライフィッシング発祥の地なんですよ。山に3日くらい入りっぱなしで、獲れるのはトラウト(マス)。レインボーやブラウンといった外来種が多いけれど、アメリカ原産のブルックトラウトも釣れます。
――キャンピングや釣りに行くときにはお酒を持って行きますか。
季節に合う酒ですね。秋や冬、焚き火しながらだとウイスキーがいいです。ヒップフラスコ(スキットル)に詰めてそれをちびちびと。それから、ウッドストーブを組んで、焼酎の熱燗(あつかん)。やかんに割水(わりみず)しておいてストーブで温めて。美味しいですよ。日本酒も燗にして飲んでいました。夏ならスピリッツも持って。ラムやジン、焼酎を炭酸か水割りで。
――「50歳引退」を実現して、自給自足の生活も始められた。というのに、いまは別府で、「ベッパーズ タバーン」というお店で働いていらっしゃいますね(笑)。
そうなんです。おかしいなあ(笑)。
――現場復帰のきっかけは何だったのですか。
2022年6月に帰国して1カ月くらい経って。朝7時くらいに、習慣になり始めていた妻との散歩ついでに、別府の港でイカ釣りをしていました。そこにジョギングしていた小中学校の幼なじみの宮崎省三(みやざき・しょうぞう)くんが通りかかって、「ちょっと飲食店やろうと思うから、手伝ってよ」と声をかけられました。有無を言わさぬ感じで(笑)。
――帰国してすぐのことだったんですね。
そうです。でもそのときは話だけ聞いておいて。1年ほど「自給自足」で遊んでいました。2023年の夏くらいやったかな。ぼちぼち手伝うかなと。オーナーの宮崎くんは元々ラガーマンで、どういう店をやりたいのと聞くと「スポーツバー的な要素を取り入れたい」ということだった。それやったらタバーン的なライトな感じがいいんじゃないかと。
タバーンというのは日本の居酒屋みたいな感じのバーですね。カクテルも出したいというので、内装もそれに対応できるように考えました。別府は外国人のお客さんも多いので、ターゲットも日本人だけじゃなく、インターナショナルな感じでやりたいと。それなら僕がやってきた経験からいろいろアドバイスできるかなと思い、コンセプトを詰めていき、2023年11月にオープンしました。
――お客様の反応はいかがですか。オープン前に想定していたような反応でしょうか。
まあこれが難しくて。まず、タバーンが分からないですよね。欧米の人やったらすっと入ってくれるんですけれど。地元の人から、「何屋なの」「ホテル?」「旅館でしょ」とか。タバーンって居酒屋なんですよと、そこらへんからですね。スポーツバーっていうのも分かりにくいし、立ち食いとか落ち着かないでしょ。
「Angelʼs Share」もそうでしたけれど、新しい店ってお客様に浸透していくまでには時間がかかります。それを別府であらためてやっている感じです。アメリカのバーのような強いお酒はあまり出ない感じですね。ニューヨークの感覚でカクテルをつくると、こちらではきついようです。日本ではバーよりも居酒屋で飲む人の数が圧倒的に多いでしょう。居酒屋には強い酒はあまり置いていないし、焼酎などは水やお湯、炭酸、お茶とかで割るじゃないですか。口に入るときにはアルコール度数が弱いものに慣れている。
――「ベッパーズ タバーン」では週に何日お店に出ていらっしゃるのですか。
週6です。
――全然引退した人とは思えない(笑)。
おかしいでしょ。おかしいですよね。でもまあ、やりたいことができていて。同級生の店のお手伝いするというのは、全然いいんです。毎日楽しいし。店のスタッフは外国人ばかりなんですよ。使うのは英語。人生の半分以上英語で過ごしてきたので、英語の方が落ち着くということもあるんで、私にはいい環境です。
――スタッフはどういったところから集められたのですか。
APU(立命館アジア太平洋大学)の学生アルバイトが多いです。アジア各国の学生さんやその友達、欧米の学生さんも多い。
――APUには優秀な学生さんが集まっているそうですね。
海外の育ちのいい子たちが多い感じですね。大丈夫かお前ら、とか冗談言ってますけどね(笑)。
――池田さんからバーの基本を教えてもらえるなんて幸せですね。そこから後継者が育つといいですね。
いやいや。彼らは彼らで、やりたいことがあるでしょうし。でも飲食ビジネスに関しての考え方だったり、姿勢だったり、説明すれば納得してくれるし。経営の基本は同じものだと思うから。おれもそうだったなとか。楽しんでます。そんな感じっす(笑)。
とにかく、地元を盛り上げていきたいですね。この店はもちろん、近所のバー「ROUTE10(ルート10)」のオーナーバーテンダーの首藤篤(しゅとう・あつし)くんとかも幼なじみですけれど、そういった仲間たちと別府のバーライフを盛り上げていきたいと思います。
PROFILE
池田真一(いけだ・しんいち)
1972年、大分県別府市生まれ。1995年に渡米。以来約30年間、ニューヨークに居住。1996~2007年、「Angelʼs Share(エンジェルズ・シェア)」のバーマネージャーとして活躍、同店躍進の礎を築き、NYジャパニーズカクテルブームの⽴役者のひとりとなる。この間、「ZAGAT SURVEY」で3年連続NYの NO.1バーに選ばれた。(同店は2020年に「Tales of The Cocktail Spirited Awards」で、カクテル⽂化への貢献を称えられ「TIMELESS U.S. AWARD」を受賞している)。2007年に独⽴し、NYトライベッカにジャズバー「B♭(ビーフラット)」、レストラン「SHIGURE(シグレ)」の2店をオープン。さらにNYのレストラン「sumire(スミレ)」(DREAMS COME TRUEの吉田美和さんの店)、「Restaurant Morimoto Buddakan」(アイアンシェフとして知られる森本正治さんの店)などの開店でコンサルタントも担った。2022年に惜しまれながら引退、地元大分県別府市に帰国。現在は幼なじみが開いたレストランバー「Bepper’s Tavern(ベッパーズ タバーン)」(2023年11月開店)の運営をサポートしている。