書家荒金 大琳
――まずは荒金先生と書道との出会いについて教えてください。
僕は苦手なことをそのままにしておけず、どうしても克服したい性分なんです。小学生の頃は足が遅かったので、絶対に速く走りたいという気持ちがあって、中学では陸上部に入りました。入部当時はビリだったんですけどね。3カ月間、腕振りの練習だけをしたら400m走で学年1番になりました。算数も苦手だったので、中学になった時に数学の塾に通うようになったんです。おかげで数学の面白さに目覚めて、大学でも数学の講義を受けました。
ここまでくればお分かりになるでしょうが(笑)、陸上や算数と同じで、小学生の頃は字が本当に下手で。だけど書くのは好きだったんです。一番好きだったのは墨の匂い。それに硯(すずり)にも印にも興味があった。小学校では松尾翠嶺(まつお・すいれい)先生、中学校では首藤春草(しゅとう・しゅんそう)先生に師事しました。先生方は中国のことを教えてくれて、それをきっかけにいろんな書の先生に憧れを持つようになり、みるみる書けるようになりました。
そして著名な書家である宇都宮西邦(うつのみや・さいほう)先生が大分県立別府鶴見丘高等学校に勤務され、当時同校の3年生だった私は宇都宮先生から学ぶことができました。ある時、書道の授業中に宇都宮先生がこうおっしゃったんです。「書家は字が下手でいいんだよ。好きが一番いいんだ。きれいな字を書くだけじゃない、いろんな書があるんだよ」って。これには感銘を受けました。
高校を卒業し、大東文化大学文学部中国文学科に進学しました。大学では書道部に入部しましたが、当時は部員600人中600番目のドベでした。さすがに「これじゃいけん」と思い、中国の古典で楷書(かいしょ)の基礎といわれる「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」*1の中に書かれている文字を朝昼晩、毎日300枚、1週間で2,000枚書きました。このおかげで波磔(はたく)が書けるようになりました。*1 九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい):中国唐代を代表する書家のひとり、欧陽詢(おうようじゅん)による書。石碑に刻されており拓本が採られて広く流布した。文字数は全部で1,109字。現代でも「楷書の極則」といわれ、学校で習う楷書の字形もこの「九成宮醴泉銘」を元にしている。
――すさまじい努力の結果なのですね。大学卒業後は書家としてどのように活動を始められたのですか。
大学卒業後は故郷の別府市に戻りました。友達や親戚が「うちの子に教えて」と言ってくれて、書道教室を始めました。そして僕が23歳、家内(書家・詩人、荒金節子さん)が22歳の時に結婚しました。家内は僕が中学生の頃に師事していた首藤先生の内弟子だったんです。
大学生の頃、東京から列車で25時間ほどかけて帰ってきて、疲れているのに実家に真っすぐ帰らず、首藤先生のところに直行していました。ある時、先生が「君は家に帰らず、すぐに私のところに来るのか」って感心したようにおっしゃるんですよ。それで「先生、ごめんなさい、彼女の顔を見に来ました」って(笑)。まあそんなような出会いです。
26歳の時に日展に入選しました。そしたら、高名な書家でいらっしゃる金子鷗亭(かねこ・おうてい)*2先生から電話がかかってきたんです。「君、東京に出てこないか?」って。金子先生は、毎年8月15日に東京・日本武道館で行われる全国戦没者追悼式の「全国戦没者追悼之標」などを揮毫され、毎日書道展の初開催、創玄(そうげん)書道会*3の設立にも尽力された方です。ただ、当時の私は東京に住むのは無理だったので、1カ月に1回の通いの門人にしていただきました。*2 金子鷗亭(かねこ・おうてい):1906~2001年。近代詩文書運動で知られる、日本を代表する書家。1937(昭和12)年第1回大日本書道院展特別賞、1948(昭和23)年毎日書道展(毎日新聞社主催)理事出品、1966(昭和41)年日展文部大臣賞、1967(昭和42)年日本芸術院賞、1987(昭和62)年毎日芸術賞などを受賞。1990(平成2)年には文化勲章(書家として2人目)を受章。1952(昭和27)年「全国戦没者追悼之標」などを揮毫。*3 創玄書道会:国内最大級の書道団体。難解な漢字や草書が多い書道の世界で、口語文や詩、俳句、随筆などの親しみやすい文字を中心とした大衆の書の普及に取り組んできた。毎年3月に国立新美術館と東京都美術館で展覧会「創玄展」を開催している。
当時、飛行機代は今より高いぐらいでしたからね。月に1回東京に通う旅費は経済的には大変でしたけれど、家内がやりくりしてくれました。当時、金子先生は60代。先生の作品には心を奪われましたが、特に古典の臨書が素晴らしかったですね。そして、お人柄も本当に素敵な方でした。
金子先生と一緒に食事をしていた時のこと。僕、コーヒーが飲めないのでアイスクリームを頼んだら、女性陣が笑ったんです。その時、金子先生が「僕もアイスクリームにする」とおっしゃって。そしたら次々に「私もアイスクリーム」って。みんなで大笑いしましたね。そんな感じでいつもさりげなく僕のことをかばってくださっていました。
毎月金子先生の元に通い、高村光太郎や石川啄木などの詩や文などを書いていたのですが、金子先生が選ぶのは、いつも家内の詩を書いた作品でした。「節子さんが書いた詩は柔らかくていいんだ」って。
僕は、1973(昭和48)年に日展初入選しました。1976(昭和51)年には毎日書道展 毎日賞を受賞しました。1986(昭和61)年のことですが、毎日書道展に向けて高村光太郎の詩を2,000枚ほど書いてみたものの、金子先生はどうしても首を縦に振ってくれない。「今年はもう出展はダメかな」と思って、別府に戻りました。家で、家内が「こういうの、あるんだけど」って見せてくれたのがこの詩です。
「吹き抜ける 風の見たものは あどけない 少女の髪にそよぐ 陽ざしのぬくもり 年老いた人の 頬を照らす あたたかい 抱擁」
これは僕の父が入院した時の詩ですが、家内はそれを1年間言わなかった。僕はそんなに苦しい内容の詩だとは思わず、5枚だけ書いて、それを金子先生に持って行きました。するとそれが選ばれ、第38回毎日書道展で会員賞をいただきました。それ以来、家内の詩はたくさん書いています。
「無 ない ない ない なんにもない ないのがあるだけ なんにもない」
「歩 いっしょに歩こう いっしょにあそぼう いっしょに悩んで いっしょに笑おう いっしょにね」
「幸せ 私の今日の幸せは 美しい瞳を見れること 輝く瞳を守ること きれいな涙をふけること 私の心もときめくこと」
素敵だと思いませんか? この歳になって言うのもおかしいですけど、家内に惚れ込んでいますからね(笑)。この詩がなければ、書家を続けられていたか分かりません。僕が書道に精一杯取り組んでいる中、家内は4人の子育てを頑張ってくれました。詩の中にも子どもたちがいろいろな形で登場します。彼女は、日々の生活を書き留めているだけといつも言っています。
――奥様節子さんと金子鷗亭先生。荒金先生の人生に大きな影響を与えたお2人なんですね。
はい。金子鷗亭先生は先ほども話しましたが、温かい人でね。ずいぶんかわいがっていただき、生涯にわたる師と仰いでいます。
僕が全国高等学校文化連盟(全国高文連)の大分県役員をしていた頃のこと。創立3年目の記念展で、美術の先生と書の先生をお招きすることになりました。美術の方はあの「太陽の塔」でも知られる岡本太郎先生。書の方は僕の担当で、金子先生をお招きすることになり、「先生、お金がないんですけど、大分の高校生のために来てくれますか」と申し出たところ、先生は「いいよ。高校生のためだけじゃないよ。僕は君のために行くよ」と、快く来てくださったということがありました。
毎年、先生のお誕生日には、上京してお祝いにいきました。先生が85歳の時はバラの花束でお祝いしました。その時、「先生が90歳を迎えるまであと5年あるから、何かできるんじゃないか」と思ったんです。
考えの末、先生の作品の字典を作ることにしました。計画2年、資料集めに3年かかりました。ですが、先生の90歳のお誕生日までにはどうしても間に合わなくて、表紙と厚みが分かるけれど中身は白紙の束(つか)見本をお持ちしたんです。そしたら先生が「これ、いいね」と言って「九十歳 金子鷗亭」と署名してくださった。間に合わなかったおかげで作品の1つとして収録することができました。
1996(平成8)年8月8日、「金子鷗亭書体字典」(荒金大琳編/別府大学書道研究室)を完成させました。金子先生はとても喜んでくださいましたよ。そして、「この方々には贈呈してください。この方々からは推薦状をもらってください。そしてこことここには私から頼まれたと言って持って行きなさい」と手配してくださったんです。そしたらお弟子さんがみなさん買ってくださって。この字典の制作にかかった印刷代はおかげで全額支払うことができました。こういうところもやっぱり金子先生はすごいです。
――金子鷗亭先生との深いつながりが伝わってきます。さて、荒金先生は書家としてだけではなく、研究者としても活動されてきました。
元々、書というのは書物ですからね。ただ書の技術だけを鍛えた「上手さ」だけが書の世界ではないんですよ。僕の場合は、書から入って、さまざまに興味が広がり、研究し、論文を書くようになりました。
例えば僕が書いた「万病に苦しむ書聖王羲之考」(文物出版社「第五届中国書法史論国際研討会論文集」2002年)という論文があります。王羲之(おうぎし)*4は母胎を通して水銀中毒の病を得て、さまざまな病に苦しんだ人です。僕は王羲之が記した「十七帖」を代表とする尺牘(せきとく/書簡のこと)を解読し、手紙の内容、病と薬、心の病などに分類しました。*4 王羲之(おうぎし): 303~361年。中国東晋の政治家・書家。字(あざ)は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれている。王羲之が書いた「蘭亭序」には現在まで連なる書の歴史のすべて、漢字の基準があると言われている。
「十七帖」といえば草書のお手本書として有名ですが、内容としては病と苦しみを書いたものも多いのです。しかし、漢文の草書なので日本では読めなくて、書物としての意味を考えず、ただ書の手本として書き写してきた人も多いのではないかと推測します。それを病の観点から分類したものですから、論文を読んだ方からは、数学的感覚というんですかね、書家にしては発想が面白いとよく言われました。
ほかにも、木簡に書かれた書であれば、「木簡のリズムを作りたい」と本を切り抜いて木簡に貼り付けて持ち歩きました。そのうち、「せっかくだから、くりぬいて字を書こうか」、「この新しい木をどうしたら古く見せられるだろうか」とどんどん興味が広がっていった。土に埋めてみたり、何百本もの木簡を水を張ったポリバケツにつけてみたりして、古い木簡の風合いを再現しようとしました。その結果、水につけたところは腐らず変色し、水から出たところは腐ってしまうことが分かりました。
甲骨文字も再現したくて、友達の牛肉店にお願いして牛の肩甲骨を分けてもらい文字を彫りました。もちろん占いもしましたよ(笑)。穴をほいで(空けて)ひびが入ったところで吉凶を占ったのです。甲骨文字を再現するにあたっては、東京大学名誉教授で甲骨文字研究の第一人者である松丸道雄(まつまる・みちお)先生にもお話を聞きました。
僕にとっては全て書が入り口なんです。王羲之にしてもこれだけいい文章ですから、内容を知らずにただ綺麗に書くだけではもったいないなと思います。
――荒金先生は書道教室もされています。子どもたちに書を教える時に大切にされていることを教えてください。
僕は小学校の何年生であろうと大人として扱います。心がけていることは、とにかく楽しくすること。お手本通りに書くように指導すると、書道が嫌いになってしまう子も出てくるんです。だから僕の教室ではまず詩を書きます。「春がきた 春がきた どこにきた」とかですね。同じ「春」という字を書くにしても、その方が楽しいと思うんです。
幼稚園でも30年間教えていますが、「漢字教育って言わないでください。書のあそびです」と言っています。例えば、家内が作ってくれた布のタペストリーと一緒に、童謡の「あめふりくまのこ」を歌います。歌詞に合わせてポケットから魚を取り出してみたりしながら。子どもたちは、歌詞に出てくる「雨」「山」「川」といった漢字を、歌と絵と書が一体となった作品として絵の具で書いていきます。
また、僕の教室では楷書より先に草書を教えています。例えば「の」を書く時。「の」の元は「乃」ですが、つながっていない部分をつなげて書いているだけです。つなげた部分は虚線(きょせん)と言います。だから虚線と実線を同じ太さで書かず、虚線は細く書くんですね。
こうやって論理立てて教えてあげると小学生にもよく分かります。ただし、自分から求めてきた子どもにしかこのような教え方はしません。求めてないのにこっちから教えようとすると、「先生、もう帰っていい?」って言われてしまいますから(笑)。
このように古典を教えることが「書を遊ぶ」ことになるんですね。遊びから入らないと、面白くならないと思うんです。
――荒金先生が大学卒業後、大分に戻り書家を続けてらっしゃるのはなぜですか?
本当はある国立大学の大学院に進みたかったんです。でも試験に落ちてしまって。そのことがショックで、東京の人には申し訳ないのですが、「東京の人には負けたくない」という気持ちを持つようになりました。だから、大分県の別府市に住んでいるからといって田舎の人と捉えられないように、明るくていい作品を書こうと思いました。一方で、故郷の言葉を書にしたいという思いもありました。
昨年の「第58回 創玄展」には「希望の風」という家内の詩を書いた作品を出しました。「希望」というのは、2023年の干支「癸卯」(みずのとう)を「きぼう」とも読むので、それとかけているんですね。そして「希望の風」ということで、「吾が町別府に吹く風は 緑色のにおいがする 山と海に圍(かこ)まれたこの町の隅々に希望の風が吹いている」と添えました。
「うまいね」と言われるより、「心を打つ」とか「素敵だ」とか「温かくなる」とか、そういう表現で評価される書家でありたいと思っています。
――荒金先生のご活動は日本にとどまらず、中国でも注目されていますが、先生が古今東西で気になる書家はいらっしゃいますか?
過去の書家になりますけど、先ほどから再三お話している王羲之ですね。現代の書家ではもう亡くなられましたが啓功(けいこう)*5先生は本当に素敵でした。金子鷗亭先生と同世代の書家ですが、金子先生同様に啓功先生の線はすごいです。*5 啓功(けいこう):1912~2005年。北京市出身。画家、書道家、文学家、歴史学者。長年にわたり、文字と絵画を学び、輔仁大学美術科、中文科講師、助教授を歴任。全国政協常務委員・中国書法家協会主席・北京師範大学教授を歴任した。
実は僕、60歳を過ぎてから啓功先生が教授をされていた北京師範大学に留学したんです。ちょうど息子が北京大学に在学していたこともありまして。啓功先生の後継者である秦永龍(しん・えいりゅう)先生に、夏休みと冬休みに大学の教室に論文を持って行って、見ていただき発表するという形でした。結果的には中退しましたが、とてもよい経験になりました。
――これから日本の書はどのように進化していくと思われますか?
書ということにおいては、やはり筆を使うべきだと僕は思います。楷書を書くときには書きやすくするために筆を固めたりしますが、全部おろした方がリズミカルに書けます。筆の力強さ、表現力の豊かさ。さらに墨の濃淡をつけるとより表現方法が増えます。筆による書じゃないと表現できない世界を知ってもらいたいです。
今の日本の書道界は漢字、仮名(かな)、近代詩文書、篆刻(てんこく)*6、表具(ひょうぐ)*7といった、本来一体であるべきものがすべてバラバラになっています。表具は難しいにしても、せめて漢字と仮名は書けるというのが大事じゃないかと思っています。*6 篆刻(てんこく):主に篆書体(てんしょたい)の文字を石や木や金属などの印材に印として刻むこと。
*7 表具(ひょうぐ):書や絵画などを掛軸や巻物、額装に仕立てる技術。表装とも言う。
――荒金先生は、安心院町「東椎屋の滝」題字、飲酒運転撲滅運動「のんだらのるな」(別府警察署)、「やめちょくれ」(大分県警察本部)、国指定名勝「海地獄」「龍巻地獄」「血の池地獄」「白池地獄」の標柱などに揮毫していらっしゃいます。こうした多くの眼に触れるところに揮毫される際に、心がけていらっしゃることはありますか?
「のんだらのるな」を書く時、実際にお酒を飲んで書いてみたんです。そしたらやっぱり上手くできませんでした。やっぱり飲んだらダメだなということを実感しました(笑)。夜も仕事をしたいので外ではあまり飲みませんが、家と泊まりに行った時だけ、家内と2人で日本酒か焼酎をゆっくり飲むこともあります。心を癒してくれますね。日本酒は辛口がいいですね。日本酒も焼酎も冷やが好きです。
そうそう、昔、東京で「いいちこ」が手に入らなかった時期がありましたよね。その時、金子鷗亭先生のお弟子さんたちが欲しいということで、「いいちこ」の一升瓶ケースを3ケース買って東京に送ったことがありました。
――それでは最後に、荒金先生の今後の展望についてお聞かせください。
最近、久しぶりに心に火がついて論文を書き直しています。先日、徳島市の四国大学で発表してきたのですが、これだけでは足りないと思い、もう1度最初から書き直しています。元々11ページだったものが、60ページになって、これからもっと増えると思います。
テーマは何度も論文の題材にしてきた、中国・唐時代の著名な書家、褚遂良(ちょすいりょう)*8の「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」*9です。1文字ずつ拡大し、修正線についての意義などを考察しています。*8 褚遂良(ちょすいりょう):596~658年。唐時代の書家・政治家。字は登善。代々南朝に仕えた名門の出身。欧陽詢・虞世南(ぐせいなん)と共に初唐の三大家の1人。
*9 「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」:653年、褚遂良による楷書の古典。国禁を犯して単身インドへ旅した三蔵法師(玄奘)が、17年の歳月を経て、仏典を長安に持ち帰り翻訳。西安の慈恩寺境内にある大雁塔(だいがんとう)南門の龕(がん・仏像を納めるために壁面に設けたくぼみ)の左側に序碑、右側に序記碑がはめ込まれている。
「雁塔聖教序」は西安にある慈恩寺の大雁塔にはめ込まれているのですが、なんとか現物の写真を撮りたくて、1年に2通ほどラブコールを送っていたんです。中国政府の方針が変わったこともあり、ついに陝西(せんせい)省人民対外友好協会の働きかけがあり、大雁塔の鍵を開けてもらえることになったんです。これには日本の中国大使館に勤めていた私の友人が骨を折ってくれました。そうして現物を写真に収めることができたんです。
僕は20~30年の歳月を雁塔の研究に費やしました。これからも研究を続けたいと思っています。
PROFILE
荒金大琳(あらかね・だいりん)
1947(昭和22)年、大分県別府市生まれ。本名は荒金信治(あらかね・のぶはる)。別府大学名誉教授。別府市美術協会会長。公益社団法人創玄書道会理事。大東文化大学中国文学科卒業後、別府市に戻り書家として活動するかたわら書道教室を開く。1973(昭和48)年、第5回日展入選を機に金子鷗亭の門人に。以降、日展入選は13回。1976(昭和51)年、第28回毎日書道展毎日賞、1984(昭和59)年、西部書作家協会展大賞、1985(昭和60)年、第21回創玄展東京都知事賞など受賞多数。1987(昭和62)年、別府大学の講師、1992(平成4)年、同大学助教授、1999(平成11)年、同大学教授となり、2013(平成25)年の定年退職まで勤務。主な論文に、「卜甲骨制作方法における実証―甲骨を覆う脂抜きについて―」(別府大学書道研究室、1997年)、「雁塔聖教序の線に関する考察」(1998年)、「万病に苦しむ書聖王羲之考」(文物出版社「第五届中国書法史論国際研討会論文集」2002年)ほか。