「Bar CASK」オーナーバーテンダー佐藤 昭次郎
――佐藤さんがバーテンダーになろうと思われたきっかけについて教えてください。
高校生の頃、神話に興味を持ってさまざまな書物を読んでいたんです。そうすると日本もそうですけど海外でもお酒にまつわる神様がたくさん出てくるんですね。そこからお酒に興味を持つようになり、いろいろと調べていくうちに、バーテンダーという職業があることを知りました。そして人づてに大分市内のバーを紹介してもらい、ちょこっとアルバイトでお手伝いするようになりました。内側からその仕事ぶりを見ていて、「これはすごい仕事だな、これをやろう!」という気持ちになったんです。
そのお店の裏のお店が当時の日本バーテンダー協会・大分支部長のお店で。支部長さんから「本格的にやるんだったら、東京に行って、きちんとした人について基礎を学んで、“本物”を大分に持って帰ってきたらどうだ」と言われたんです。当時、東京と大分では、文化などの面で約10年の差があると言われていましたから。
――そうして、高校卒業と同時に東京に行かれたのですか。
卒業式を待たずに2月の中頃には東京に行きました。待ちきれなくて。当時は、就職が決まっていれば、卒業式は出なくてもよかったんです。卒業証書はちゃんと送られてきましたよ(笑)。勤め先は渋谷にあったニッカバーです。当時はメーカーを名乗るバーが多かったですね。サントリーバー、トリスバーとか。
東京で修業して約4年経った頃、支部長さんから大分に呼び戻されました。今のこのお店のすぐ近く(大分市都町)に、敷地が600坪ぐらいある大きな料亭があって、そこがビルを建てて、クラブとレストランをつくったんですよ。僕はそのクラブの中にあるバーに入ることになりました。そこには大分第1号の自動ドアがあって、ドアを通ると右側に小便小僧の噴水がある池、その奥にバーカウンターがありました。左側にはピアノが置かれたホールがあって。
財界人や政界人の方々がよくお見えになっていましたね。そこのオーナーはお酒の仕入れに関してお金に糸目をつけない人で。博多にある有名な酒店にまで仕入れに行かせてもらっていました。入店した当時は九州で有名な方がチーフバーテンダーをされていたのですが、ご病気で退職され、その後、私がチーフになりセコンドと2人で長らくお店をやっていました。
――東京で学んだ技術を遺憾なく発揮されたわけですね。
大分でも東京でも基本的な技術は変わらないと思います。ただ、お客様にお出しする際に、ちょっと洒落(しゃれ)た感じで提供する、というセンスは東京の方が優れていたでしょうね。そういったセンスは味にも影響するんですよ。深みや粋さが出ると言いますか。もちろん私も東京流を目指していました。
そのずいぶん後になりますが、小説家の開高健さんの本に「名酒とは限りなく水に近い」と書かれているのを読み、感銘を受けました。水のようにすっと飲めるのが名酒だと。私のマティーニはそれを目指すことにしたんです。いかに柔らかくすっと飲めるか。だから、お客様は私が作るマティーニは酔うとおっしゃいますね。アルコール度数はしっかりあるのですが、飲みやすくて、ずっと飲んでしまうものですから。
――その後、独立してBar CASKを開店されたのですね。
そうですね。料亭のクラブには11年間勤めて、独立しました。最初からいずれは自分の店を持つつもりでいましたから。オーナーからは、「独立するのはやめて、うちの常務になってくれ」と言われたのですが、お断りしました。そしたら、銀行の借り入れからなにから、オーナーが支援してくれました。他の経営者からは「お前、すごいな」と言われましたね。オーナーの目の前で「独立する」と言って、支援を受けているわけですから。オーナーからは経営についてたくさん学ばせてもらいました。だから、私も弟子を5人独立させましたけど、彼らが独立する時は開店の案内状からなにからなにまで、支援しましたよ。
――Bar CASKは2023年には創業48年になります。大分でもっとも長く営業されているバーだそうですね。開店当時から今の場所(大分市都町)なのですか。
はい。この近くには元々病院があったんですよ。その病院の先生が、私が勤めていたクラブの常連さんで。「ビルを建てて貸し店舗にするから、うちで店出さんか」と声をかけていただいたんです。今もそうですけど、お客様にはお医者様が多くてですね。熱心に支援してくださいました。
じつはオープン前日になって、「お客さんが来てくれんやったらどうしようか」と心配で胃が痛くなっていたんです。ところがオープン当日。扉の向こうで声がするもんだから、パッと開けてみたら、7、8人ドクターのお客様が待ってくださっていて。カウンターにずらっと先生方が並んでお座りになりました。みなさんご祝儀を持ってきてくださって。
ある方は「請求書を1冊くれとけ、銀行口座を教えろ」と言うんですよ。その方はいつも10万円ちょっとしか飲んでいないのに、毎回50万円近く振り込んでお店を応援してくださりました。開店から1年経った頃、「佐藤、もうそろそろいいか」と。飲食店は付け(ツケ)が多いですからね。1年間、現金で支援してくださったことは本当にありがたかったです。昔はそういう“旦那さん”と呼ばれるようなお客様もたくさんいて助けていただきました。
――そういったお客様とのエピソードや、佐藤さんのバーテンダーとしての流儀を教えてください。
まずは、お客様の好みによって味を変えてあげることですね。アルコールには強いですか弱いですか、甘いのがいいですか、などお客様の好みを必ずお聞きするんですよ。だからお客様から「医者みたいだな」なんて言われますね。
例えばあるドクターの常連のお客様のお話ですが、ゴルフ帰りで来た時と、食事をしてから来た時ではお客様の舌が違うんですよ。となると当然、それぞれお出しするカクテルの味も変えないといけない。その方は「オレのマティーニ」と言ってご注文され、「お前さんの味はいつ来ても変わらんな」とおっしゃるのですが、「いいえ、先生、僕は絶えず味を変えてお出ししてますよ」と。すると「何や!」とおっしゃるわけです(笑)。その先生は30年通い続けてくださっていました。
「30年前とはずいぶん味も変えていますよ」と言うのですが、信じていただけない。息子さんも通ってくださっていたので、一緒の時にそれぞれのお口に合わせたマティーニをお出しして飲み比べていただきました。先生は「オレのマティーニ」は辛口のドライマティーニだと思われていたのですが、息子さんに確認してもらったら非常に柔らかいマティーニに感じられた。30年の間に少しずつ変えてお出ししていたんですね。それが、「いつ来ても変わらない」美味しい味ということなんだと思います。
私の店では、トイレの扉にお店の8箇条を貼ってあります。帽子をかぶっていたら脱ぐように言いますし、座り方もきちんと座っていただくように促します。大声を出されたりすると、すぐに注意します。作業着で来られたら「ここは遊びの場所だから遊びの格好で来てくれ」と。昔は「ここはドレスコードがあるぞ」なんて言われたりしていました。
でもそういうことを続けていると、「ここは大声出すとマスターに叱られるけんね」なんて言いながら、別のお客様を連れて、また来てくださるんですね。帽子もパッと取って(笑)。それが嫌な人は来てくれなくていいと思っています。私の店に来たら、どんな方でも同じ扱いをします。味の面ではもちろんお客様第一ですが、マナーについては決して媚(こ)びるのではなく、自分の流儀を貫いて自分の店を守ることの方が大切ですから。
――なるほど、それは長く続けてこられた秘訣のひとつでしょうか。
そうでしょうね。それと若いお客様も大切にして、常に若返りを図ることも必要ですね。そうしないと途絶えますから。若いお客様は「お、また来たな」なんて声をかけると「マスターが覚えていてくれた」と喜んでくださるんですよ。おかげさまで、親子3代で通ってくださるお客様もいます。一番はお客様に支えていただくことですね。
私自身のことですと、やりたいことが次々に出てくるんですよ。現在、日本に定着しているアメリカンスタイルの現代カクテルの歴史なんてたかだか170年、180年です。お酒の歴史は紀元前3000年からですものね。考古学の研究にも興味があるのですが、紀元前3000年頃に使われたであろう酵母が、今から15年ほど前に発見されたそうです。発掘調査を行ったところ、壺の底にこびりついていたそうですよ。お酒には酵母菌が必ず必要ですからね。ワインなんかは自然発生的にできたということですが、そんな時代に人工の酵母菌があったなんて驚きですよね。古い物を知って新しい物を作る。この心構えが何においても大切だと思っています。
コロナ禍で時間ができたものですから、大正初期や昭和のカクテルブックを翻訳し直したりもしました。これも面白かったですね。そうそう、「ミード(Mead)」というハチミツを原料としたお酒があるんですけど、これが世界最古の製法の醸造酒と言われていて。うちの日本バーテンダー協会の若い連中にも飲ませたりして、知見を広めました。
――2012年には全国のバーテンダー約4,700人を束ねる日本バーテンダー協会の会長を務められました。会長時代にはどのような取り組みをされていたのですか。
会長の前には九州の支部長も務めました。頻度は支部によって異なりますが、九州支部では毎月1回研究会を開いていました。新しいカクテルについての研究や、ベテランバーテンダーによる実技講習など、技術的なことももちろんやっていますが、一番力を入れたのは人格教育です。やはりきちんとした人格じゃないとお客様は来てくれませんから。バーテンダーは誘惑が多い職業だからこそ、マナーを含め、きちんとした人格を形成しないといけないと思っています。
バーテンダーに必要なものは「3S」、つまり「スマート、スピード、スマイル」だと思います。私はバーテンダーの世界大会でも審査員をしていましたが、日本人には「スマイル」が足りないんですよ。だから大会でも「スマイル、スマイル!」と声をかけています。海外では「楽しく提供する」ことに重きがおかれますから。でも技術面では日本がトップ。世界をリードしています。やはり所作が美しいのが日本人です。日本人はなんでも「道」にしますよね。茶道でも華道でも。ですから「バーテンダー道」と言いますか、例えばこのようにさっとボトルを取って一発で蓋を開けて、ひとひねりで閉める。この流れるような所作は日本人が追求し磨いてきたものです。
――日本が築いた「バーテンダー道」を佐藤さんは長きにわたり牽引されてきたのですね。さて、「古きを知って新しい物を作る」ということですが、最近では本格焼酎を使ったカクテルを開発されたとお聞きしました。
はい。うちは県外からのお客様も多いのですが、「大分といえば麦焼酎だろう」と。さすがにバーでそのままお出しするわけにはいかないので、本格麦焼酎を使ったカクテルを開発しました。大分県産品を使って大分県から認可を受けたのが「豊姫」(麦焼酎・さくらリキュール・ピーチリキュール・かぼす果汁)、「めじろん」(麦焼酎・グリーンティリキュール・ヨーグルトリキュール・トニックウォーター)、「かぼすラッシー」(かぼすドリンク・牛乳・ブルーシロップ)の3種です。使用する麦焼酎はお店によってそれぞれですが、私は「いいちこ25度」を使っています。
それから最近、「大分麦焼酎® 西の星」やスピリッツ「TUMUGI」をお抹茶とトニックウォーターで割るカクテルもお出ししています。当初はグリーンティリキュールを使おうかと思ったのですが、ちょっと甘いんですね。そこで、妻が時々点(た)てている抹茶がいいんじゃないかと気づきまして。妻の機嫌がいい時にお願いして(笑)、お抹茶を点ててもらったものをお店で使っています。
バーというのはお酒の「ショーウィンドウ」だと思っています。まずは店に来て飲んでもらう。美味しかったらおうちでまねして飲んでくれるでしょう。焼酎にしろウイスキーにしろ、そうしてお酒を広め、お酒を飲む人を増やしていくことが、酒造メーカーにとっても私たちバーなどの店にとっても、いわゆるWin・Winの関係ですよね。
例えば焼酎であれば、お抹茶でなくても、濃いめに淹(い)れたお番茶で割ってもいいし、もちろんウーロン茶で割ってもいい。オレンジジュースでもグレープフルーツジュースでも、なんでも合います。好みでいろいろ割ってみるのも楽しいですよね。
――それでは最後に、佐藤さんが考える「理想のバー」とはなんでしょう。
もうこのままで理想のバーだと思っています。私は80歳を越しましたが、これからもバーを続けていくつもりです。そのためにはいかに世の中に受け入れられるか、が大事ですよね。クラシカルバーだからといって、「これしかやらない」と言っていたらダメだと思っています。酒造メーカーさんが出す新商品、それを私たちが取り入れて、いかに飲みやすく提供し、酒を世の中に広めていくかにかかっていると思っています。
PROFILE
佐藤昭次郎(さとう・しょうじろう)
1942年、大分県大分市生まれ。高校卒業後、東京のニッカバーにて修業。1964年、大分に戻り料亭「菊水」のクラブのバーでチーフバーテンダーを務める。1975年、「バー瀬里奈」をオープンし、1986年に「Bar CASK(カスク)」に店名を変更。47年間にわたりオーナーバーテンダーとして店に立ち続ける。1993年、日本バーテンダー協会より「マイスター・バーテンダー」の称号を授与。2012年、日本バーテンダー協会会長に就任。2018年、同協会より国内バーテンダーの最高栄誉とされる「ミスター・バーテンダー」に選出。2020年「旭日双光章」を叙勲。
大分の魅力を
教えてください。
大分は海の幸も山の幸、要するに魚も野菜も肉もうまいんですよね。それと適当にのんびりしていて、緑が多いところも魅力ですね。東京や大阪などから帰ってきてほっとするのは、やはり緑が目に優しいからですね。
おすすめの大分グルメを
教えてください。
県外のお客様からは「魚の美味しいお店」をよく聞かれます。関あじ、関さば、ふぐも美味しいですよね。
どんなお酒をどのように
楽しんでいますか?
私は店ではいっさいお酒は飲まないんですよ。水も飲みません。というのはトイレに立つ姿をお客様にお見せしたくないんですね。だから家に帰って飲むウイスキーがうまい(笑)。1日3杯というのが、妻との約束ですので、大きめのグラスでまずはハイボールを2杯。3杯目はストレートで飲んでいます。