一般社団法人ゆれる代表小笠原 順子
――まずは、大分県竹田市に移住することになった経緯を教えてください。
大学卒業後は大手ビールメーカーに就職して、12年間営業をしていました。仕事はすごく楽しかったのですが、東京から地方に移住したいなという気持ちは漠然と持っていました。そんな中、出張で初めて大分県に来て、業務が終わった翌日、竹田市までレンタカーで遊びに来たんです。長湯温泉に浸かって、城下町でお昼ご飯を食べて、久住高原に行って。青々とした緑の世界、穏やかな大自然……、日本の原風景に触れて、なんかもう全身にビビビビッときたんですよね。細胞が喜んだ、という感じで。
その時に「ああ、私、ここに移住しよう」って決めたんです。直感的に決めたので、移住してどういう仕事をしようとか、将来こういうことをやってみたいとか、そういったビジョンは何もありませんでした。とにかく仕事を辞め、引っ越しの段取りをする中で、仕事上でつながっていた竹田市役所の方に「地域おこし協力隊っていうのがあるから応募してみない?」と言っていただき応募しました。でも地域おこし協力隊に受かろうが落ちようが、移住することは決めていたんです。
――その頃すでにお子さんはいらっしゃったんですか。
はい。子どもは5歳と3歳でした。
――すごい行動力ですね。そしてお子さん2人と竹田市に移住されたのが、2016年とお聞きしました。
そうですね。地域おこし協力隊に無事合格して。何かをやる、となると、やっぱり自分が子育てをしているので、子どもの教育に関わる教室を企画、開催したりしていました。当時は城下町に住んでいて、地域おこし協力隊として配属されたのも城下町だったので、ほぼ街の中で活動していました。
――子どもの教室ではどのようなことをされていたのですか。
体験型の教室なんですけど、ただ大自然の中で遊ぼう、というものではなく、例えば物理の教室。「ゆで卵を高速回転させると立ち上がる」という現象を世界で初めて解明した、慶應義塾大学の下村裕教授にコンタクトを取って、森の中で物理教室を開催してもらいました。ほかにも、竹田市は「トンネルの町」といわれるほどトンネルがたくさんあるので「日本キチ学会」の会長である尾方孝弘さんにお電話して、トンネルの中で教室を開いてもらったりもしました。そう、日本キチ学会っていうのがあるんですよ(笑)。
――とても面白い企画ですね。ご自身のお子さんに「こんな授業を受けさせたい」という思いが原動力ですか。
どちらかというと、竹田市で子育てをされている保護者の方に向けて、という思いが大きかったですね。活動する中で、「塾も習い事もほとんどないこの地域で子育てしていていいのだろうか」と不安を持っている保護者の方が多いということが分かったんです。
私とは真逆でしたね。私は東京での子育てに息苦しさを感じて移住してきて、こんなに素晴らしいところで子育てができる幸せを感じていました。なので、みなさんにも、竹田には都会ではできない学びがあることを知ってもらいたかったんです。
――都会から移住してきたからこそ分かる竹田の魅力を、地元の方に知ってもらう活動の一環なのですね。
そうですね。それで言うともうひとつ、地域のおじいちゃんやおばあちゃんに「昔、このあたりは……」なんてお話を聞く度に、もっと昔の町のことを知りたいという思いが強くなって。昔の8ミリフィルムを掘り起こしてつなげる「竹8シネマプロジェクト」というプロジェクトを立ち上げました。市民の方に納屋に眠っているような8ミリフィルムを提供していただいて、知り合いの映像作家にも協力してもらい「竹田ん宝もん」(竹田の宝物)という映画を作りました。
この映画を作る際、私はそれまで映像に関わったことがなかったので、勉強をかねて湯布院町で開催されたゆふいん文化・記録映画祭に行ったんです。その時に、馬や動物を中心とした暮らし型のセラピーを提案し、実践している方にお会いしたんです。
――竹田市の文化記録映画制作が馬を中心にした暮らし型セラピーにつながったんですね!
そうなんです。これも本当に偶然なんです。その方に「本当に困っている人たちに届く活動をするには、動物の力を借りるといいよ」と言ってもらった時、突然、小学生の頃の夢を思い出したんです。私、ムツゴロウ王国みたいな動物王国を作るのが夢だったなって。
一時期、埼玉に住んでいる祖父の家で暮らしていたことがあったのですが、庭にいっぱい動物がいたんです。私、その動物たちのお世話をするのが大好きで。とはいえ0歳から22歳まで水泳一筋でしたし、水泳をやめてからも何年も思い出すことすらなかった夢が突然立ち上がってきて。私もやってみたい、馬の牧場を作りたい、と思ったのが2017年、竹田に来て翌年のことでした。
――馬との出合いは、移住してから比較的すぐのことだったのですね。そこから牧場経営までの道のりは順調だったのですか。
いえいえ、ここからが大変なんです(笑)。思った以上に反対の意見を受け、難航しました。動物は、「存在そのもの」がなかなか受け入れ難くなっているのが現状です。どこの地域でも30年程前までは、馬や牛やニワトリがいる暮らしが当たり前だったのですが、すでに人間だけの世界になってしまっていて。賛同して応援してくださる方ももちろんたくさんいたのですが、村や集落全体の合意を得る、ということは思った以上に大変なことでした。地方に移住するということは、こういうことなんだなということを実感しました。
半ばあきらめかけた頃、ようやくこの「一般社団法人ゆれる」の拠点である馬小屋付きの古民家を紹介してもらったんです。ここに至るまでに3年かかりました。地域のみなさんにごあいさつとご説明を重ねつつ、家1軒、馬1頭からのスタートでした。
――家1軒、馬1頭からのスタートからたった2年でどうやってこの広大な放牧地を手に入れたのですか。
それはもう、粛々(しゅくしゅく)と活動を続ける中で、次第に理解してくださる方が増えていったんです。同じ集落のおばあちゃんが「もう、田んぼやらんけ、馬入れんか」と言ってくださって。ほかにも田んぼでのお米作りを教えてくださる方、収穫した野菜を持ってきてくださる方、たくさんの方に支えられています。
今、馬が約20頭いて、放牧地は約4haありますが、ひとりの土地所有者さんがまた別の所有者さんを紹介してくださってという形で広がり、たくさんの所有者さんから活動に共感を得て、土地を提供していただいている結果です。
――地道な活動が実を結んだ、といえば簡単ですが、大変なご苦労と努力のたまものですね。現在はオルタナティブスクール*として全国から生徒さんがいらっしゃっているようですが、どのような方たちとどのような生活を送ってらっしゃるのですか。* オルタナティブスクール:フリースクールやホームスクール、無認可校も含めた教育施設の総称として使われる。従来とは異なるカリキュラムと方法を備えた教育機関。大人は教師としてではなく、子どもをサポートするスタッフという考え方で接する施設が多い。
今の社会には、困難を抱えて生きている子どもたちが数多くいます。また、学校で受ける教育を選ばない人たちも増えてきました。YURERUのオルタナティブスクールでは、年齢問わず受け入れていて、馬を中心にヤギやロバ、犬、猫、ニワトリと沢山の動物たちと共に暮らしを送っています。
朝6時ごろ、まず馬たちにエサをやることから1日が始まります。馬たちは放牧地で自由に暮らしているので、子どもたちが自分の担当の馬を見つけて、連れ出すところから次の仕事が始まります。引き馬といって馬の手綱を持って散歩させるのですが、これが簡単なようで難しいんです。それこそ馬が「動かない」と決めたら、引っ張ることなど不可能ですから。人間がリーダーだと認めさせて「この人について歩く」と思ってもらわないといけないんです。
馬は当然、言葉が分かりませんから、声のトーンや強さで人間の言っていることを理解します。「歩いて」と強く言ってしまうと馬は走ってしまうんです。子どもたちは「心と表現を合わせていく」こと、つまり言外のコミュニケーションがいかに大切かを馬から学んでいます。
――馬が先生という感じなんですね。
はい、そうなんです。全国には学校に通えなくなった子どもたちが通う、いわゆるフリースクールはたくさんありますが、今はそのフリースクールにも通えなくて不登校になるというケースが増えています。不登校、ひきこもりの原因のひとつに「朝起きられないこと」があげられますが、「自分の馬が待っている、馬にエサをあげないと」という責任感で朝起きられるようになる子どもが多いんですよ。見学に来られた親御さんや先生方も「見違えるようだ」と驚かれます。馬のお世話は午前中で終わるので、あとは自由に川に行ったり、映画を観たり、ギターを弾いたり、思い思いに過ごします。
――東京生まれ東京育ちの小笠原さんが、このような自然での暮らしと学びにたどり着いたのはなぜなんでしょうか。
私は0歳から水泳しかしてこなくて、「1位になるため」に生活の全てを捧げてきました。その中で得たものももちろんありますが、一度オリンピックに出て、メダルは取れなかったのですが、やり切った感があって。「次の北京オリンピックまであと2年」と言われても、もう頑張れなかったんですよね。これ以上体を酷使して得るものが「世界一」という世界にもう魅力を感じなくなってしまったんです。
非常にストレスフルな子ども時代を送り、忍耐力をつけ、成果主義の世界で戦ってきましたが、もっとほかの豊かさや幸せを感じるために培う大事な時間があったんじゃないか……という後悔や、自分の人生を否定する気持ちが出てきたんです。だから、イチから就職活動をし、営業職として働き、今に至るまでは先ほどお話しした通りです。
少し前に選手時代の仲間が遊びに来てくれたのですが、「順ちゃんらしいね」って言ってくれました。元オリンピック選手で普通に就職活動すること自体が珍しいのに、まさか起業して馬と暮らすことになるなんて。自分でも考えてもみませんでした。
――元オリンピアンのセカンドキャリアとしては非常にチャレンジングですね。スポーツに限らず第2の人生を歩む人たちにとって希望になる生き方だと感じました。
そうなればいいですけどね。オリンピックに出る人出られない人、出てもメダルを取る人、取れない人、どのレベルでもみんな劣等感を抱えていると思うのですが、そのループにはまってしまうと抜け出せないというか。何かひとつに打ち込んだ、やり遂げた後でも何だってできるし、どんな生き方もあるということが伝わればいいかなと思います。
――そんな小笠原さんの今後の夢を教えてください。
5年後、10年後はどうなっているか分かりませんが、今の活動をベースにこのような場所を増やしたいと思っています。うちの学校に卒業はありませんが、子どもたちが今後働いていける場所、また今の社会の枠組みからはみ出してしまった人たちの駆け込み寺となるような場所を作っていけたらと思っています。今、新たに湯布院にも牧場を作っていて、農業法人も立ち上げたいと思っています。
――最後に、住んでみて改めて感じる大分県、そして竹田市の魅力を教えてください。
やっぱり自然ですね。険し過ぎない大自然、というのが第一印象からあります。あと食べ物も美味しいし、人も穏やかだし。移住して2週間後ぐらいに熊本地震に遭ったんです。東日本大震災も経験していますから、子どもを2人抱えてすごく不安で。買いだめしておかなきゃと、次の日すぐにスーパーに行って、必死であれこれかごに詰めていたんです。ふと周りを見ると、そんなことをしている人は誰もいなくて。
知り合いに「飲み物どうしよう、食べ物どうしよう」と相談したら、「農作物は育ててるし、水は湧いてるし」みたいな感じなんですよね。そして私の不安を聞きつけた方たちが家の前にお米や野菜を置いてくださっていたんですよ。もう、東京との大きなギャップを感じて。「生きていく上での不安」が大きく軽減されました。それ以来、一度も東京に帰りたいと思ったことはありません。それが私の答えです。
PROFILE
小笠原順子(おがさわら・じゅんこ)
東京都出身。0歳から水泳をはじめ、2000年シドニー五輪に競泳平泳ぎ代表として出場。中央大学法学部卒業後、2004年キリンビール株式会社に入社。2016年退職後、大分県竹田市に移住。地域おこし協力隊に就任。2020年「一般社団法人ゆれる」、2021年「株式会社YURERU」を設立。放課後児童デイサービス、馬を中心とした暮らし型のセラピーを行う牧場兼オルタナティブスクールを立ち上げる。