いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

大分ゆかりのあの人 第17回新しいボトルに日本のまったく新しい酒を入れて
新しい酒の世界をつくりたいと思った

アートディレクター/東京藝術大学名誉教授河北 秀也

福岡県久留米市出身の河北秀也(かわきた・ひでや)さんと大分とのつながりは小学生の頃から。夏休みや春休みには大分在住の親戚の家を訪れ宇佐市内の川で遊んだり、造り酒屋でお手伝いをしたり。その後、およそ40年間にわたって本格麦焼酎「いいちこ」の商品企画から、ボトルデザイン、テレビCM、雑誌広告、ポスターの制作などを一手に担当され、いいちこ躍進を支えてこられました。「デザイン」や文化の考え方、いいちこのボトルデザインやポスターづくりに込めた思いなどを伺いました。
文:鈴木昭 / 写真:三井公一

誰にも分かりやすい地下鉄路線図を作ろう

――河北さんは鉄道マニアでいらっしゃるそうですね。

小学生の頃からの鉄道ファンです。時刻表マニアと言ったほうがいいかな。例えば鹿児島本線の、今はないけれど西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)から山陽本線、東海道本線を通り東京駅に着くまでの全駅名を空で言えました。大学(東京藝術大学)入学から上京するのですが、それ以前から山手線の駅も全て言えましたよ。それがですね、山手線の間を走る地下鉄の駅となると頭に入らなかったんです。駅で配布される路線図は分かりづらくて使えなかったし。

――そこが河北さんの初期の代表作でもある東京メトロ(当時の帝都高速度交通営団:通称・営団地下鉄)の路線地図制作のきっかけですね。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

――そこが河北さんの初期の代表作でもある東京メトロ(当時の帝都高速度交通営団:通称・営団地下鉄)の路線地図制作のきっかけですね。

みんなも困っているだろうと思いましてね。地方から上京してきたおじいさんやおばあさんにも分かりやすい路線図が必要だと。そこで、大学の卒業制作として地下鉄路線図を作り始めました。東京の地下鉄路線は世界でも一番複雑なんですよ。マンハッタンやパリだと格子状に走っていて分かりやすい。かたや東京の地下鉄は、大半が幹線道路の下を走っていて、その道路が地形に応じて曲がっているし、路線は霞ケ関や大手町や銀座に集中している。この複雑さをいかに見やすい路線図にするか。

どう工夫したかを話すと1時間くらいかかります(笑)。でも簡単に言うとね、この路線図は90度の線と45度の線だけで作図している。文字は1つの書体で同サイズに統一して、長体(ちょうたい)とか平体(へいたい)*をかけて使い分ける。都内で分かりやすいのはJR(当時の国鉄)の環状の山手線と、東西に走る中央線/総武線ですよね。それに地下鉄路線図を合わせていきました。* 長体(ちょうたい)とか平体(へいたい): 「長体」は文字の天地のサイズを変えずに左右幅を縮小する。「平体」は左右のサイズを変えずに天地を縮小する。

1972年から地下鉄駅構内で配布された地下鉄路線図1972年から地下鉄駅構内で配布された地下鉄路線図

学生時代には、実践的なデザインを学校で学ぶというよりも印刷会社や広告会社、デザイン会社でアルバイトをして学んでいきました。サクマ製菓の「いちごみるく」のパッケージデザインをやらせていただいたのも大学2年の頃でした。大学を卒業して3年後の1974年に仲間とデザイン会社「日本べリエールアートセンター」を立ち上げました。

試験というものは大学入試でもうこりごりでね、入社試験も受けたくなくて実は就職しなかったんです。地下鉄路線図は卒業して1年後に完成させました。これを持って営団地下鉄本社に行ったら、地下鉄互助会(現・公益財団法人メトロ文化財団)に話せと言われて、地下鉄互助会に行ったら、路線図の裏に広告を入れて印刷して持ってくれば駅に置いてやるよ、と言われたんです。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

――それは相手はやんわり断ろうと思ったのではないですか。

大学出たばかりのデザイナーに、そんなことできないだろうと思ったんでしょうね。でも、僕は広告主を見つけて印刷して互助会に行ったんですよ。それでようやく私の作った路線図が各駅に置いてもらえるようになりました。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん
森昌子さんを起用、「少年老イ易ク楽成リ難シ 時のたつのは速いもの。50年後の自分に席をゆずりましょう。」というコピーと共に話題になったマナーポスター森昌子さんを起用、「少年老イ易ク楽成リ難シ 時のたつのは速いもの。50年後の自分に席をゆずりましょう。」というコピーと共に話題になったマナーポスター

その後、1974 年から地下鉄互助会でマナーポスターをシリーズで制作することになりました。会社として最初の大きな仕事です。公共広告の走りだったと思います。シリーズ第1号は「座席の譲り合い」をテーマにしたものでそのままだと地味になる。そこで、人気タレントに出てもらおうと、大手芸能事務所のホリプロと交渉した結果、森昌子さんに出ていただけることになったんです。新しい形のマナーポスターとして注目されました。

森昌子さんを起用、「少年老イ易ク楽成リ難シ 時のたつのは速いもの。50年後の自分に席をゆずりましょう。」というコピーと共に話題になったマナーポスター森昌子さんを起用、「少年老イ易ク楽成リ難シ 時のたつのは速いもの。50年後の自分に席をゆずりましょう。」というコピーと共に話題になったマナーポスター

大分の思い出

――福岡県久留米市で生まれ育った河北さんと大分との関係を教えてください。

私が小学校2年生のときに、20歳上の姉が結婚しまして、当時の住所で大分県宇佐郡院内村に嫁いだんです。で、小学生、中学生の頃は春休みや夏休みになると休みの初日から最終日まで姉の家に行って過ごしました。父は私が幼稚園のときに亡くなりましてね、おふくろと2人で院内村まで行くこともありました。私の方が路線に詳しいのでおふくろを案内するような形でね。

久留米駅から鹿児島本線に乗って小倉駅に到着。日豊本線に乗り換えて豊前善光寺駅まで行き、そこから大分交通の安心院(あじむ)行きのバスに乗り換えて、四日市を通り法鏡寺(ほうきょうじ)というバス停を通り、駅館川(やっかんがわ)の手前を右に折れて、川に沿って上流に進みます。駅館川は途中から恵良川(えらがわ)に変わり、当時は高並橋(たかなみばし)というきれいな石橋があって、夏には地元の子たちと橋の近くで泳いで遊びました。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さんの手帳

川の近くに日本酒の蔵元がいくつかあり、そのうちの1つの蔵元で姉の夫が働いていました。そこの息子とよく一緒に遊びました。彼とは2023年に大分県立美術館で催された「イメージの力 河北秀也のiichiko design」という展覧会の会場で70年ぶりに再会できました。

義兄は日本酒の営業をやっていました。小型トラックに日本酒1升瓶を10本入れた1斗箱を何箱も積んで、大分県内の酒屋さんをまわる。小学生の僕は助手席に乗せてもらいまして。当時の道路は舗装されていない、でこぼこの、雨の後はドロドロの道を揺られながら進む。それが本当に楽しみでした。蔵で奈良漬を漬けるのを手伝ったり、杜氏(とうじ)さんと話したりするのも楽しかったな。だから自分の田舎はどこかと問われたら、久留米というより宇佐と答えます。

デザイナーか、ジャーナリストか、カーレーサーか

――高校2年生のときに福岡から大分の高校に転校されたのですね。

当時通学していた久留米大学附設高校(附設高校)の1年生の時に進級クラスの文系か理系を決めろと言われた。でも僕は、大学云々よりも、社会に出た時に自分が何になりたいかを決めるのが先だなと思っていた。その時にはデザイナーかジャーナリストか、カーレーサーのどれかがいいなと考えていました。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

僕の中ではこの3つは根本が一緒なんです。事実をよく観察して理解して、それに合った解決策を出すのがデザイナー。記事にするのがジャーナリスト。カーレーサーはちょっと違う感じがするでしょ。実はこれが同じなんですよ。レーサーはものすごい高速で正確にコースを走りますよね。そのときに小石1個見逃しません。事実を見逃してはいけないという点でデザイナーやジャーナリストと一緒だと。

文系理系の選択で迷っていた1964年に東京五輪があり、そのポスターや広告などを見ていて、3つの選択肢から最終的にデザイナーを目指すことに決めました。ただ、附設高校は東京大学や医学部を目指す猛烈な受験校です。進路相談で希望を話したら、附設高校は芸術系の大学に行くには環境がよくないと転校を進められました。

ところが教育委員会が私立校から近隣の公立校への転校を認めないと言うんです。その頃、大分の姉が三和酒類で働いていて、たまたま三和酒類の創業家の一家、赤松重明さんが宇佐市の教育委員会の委員をやられていましてね。姉が赤松さんに相談してくれたんです。おかげで転入試験を受けることができて、高校2年生から大分県立宇佐高校に転校しました。すぐに美術部に入部して、美術科の先生の指導のもとで、たくさん絵を描きましたよ。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん
いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

頭の中にある「日本の美しい風景」

――三和酒類の仕事はいつ頃から始まったのですか。

「いいちこ」の広告の仕事に本格的に関わったのは1983年に酒販店や居酒屋に貼ってもらうための大型のポスターの制作からです。当時、大分の義兄が転職して三和酒類の営業に勤務しており、姉も三和酒類で働いていた縁もあって仕事をいただきました。ポスターならテレビや新聞などと比べて安くできるということで始まったものです。

そうこうしているうちに九州だけでなく広島から大阪、そして東京でもいいちこが売れ出した。もっと売ろうということで、1984年からいいちこのポスターを地下鉄に駅貼りすることになりました。美しい景色の中にいいちこのボトルが置いてあるというもの。目にした方々から大好評をいただいて、2カ月に1回が毎月になり、クリスマスポスターを加えて年間13作品のペースになりました。今も同じペースで駅貼りを続けています。テレビCMも打つようになり、その制作も日本べリエールアートセンターで担当することになりました。

  • 河北さんが手がけたいいちこのポスターの第1号(1984年4月)河北さんが手がけたいいちこのポスターの第1号(1984年4月)
  • 現在も月1回ペースで新たな作品が掲出されている。初回から数えると2024年10月分で522点になる現在も月1回ペースで新たな作品が掲出されている。初回から数えると2024年10月分で522点になる

ポスターの撮影はコロナ禍の時期を除くと大半を海外で行ってきました。国内だと電信柱や杭などが目立って撮影しにくいというのが理由の1つです。そもそも日本の風景なのに撮影は海外で行う。これってどういうことか。人というのは見ているようで必ずしも本物を見ているわけではないことを意味しています。

街中を歩いているときに、ある部分は見ているけれど、そのほかの部分は実はテレビや映画、雑誌で見ていたものかもしれない。それらが脳の中に一緒に入っている。「美しい日本の風景」と言っても、脳の中のどれをもって言っているのか実は分からないものなんです。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

日本のまったく新しい酒を入れるボトルのデザイン

――「いいちこ」のボトルのデザインにも関わられています。それぞれどのような発想から生まれたのでしょうか。

最初に手掛けたのは1985 年の「いいちこシルエット」。これは行きつけの料理屋のおかあさんから、「いいちこ」のボトルの高さをウイスキーのボトルキープの棚に収まるようにしてほしいと言われたことでひらめきました。日本的であるけれど西洋的でもある。強そうに見えるけれど、弱いイメージもある。そういう相反したイメージを表現したいと思いました。

ガラス瓶の設計をお願いしたのは、石井康治(いしい・こうじ、故人)さんという大学の同窓生です。彼は大学卒業後、東洋ガラスに就職してそこの制作企画室でデザイン設計を担当していました。最初、石井さんには、焼酎のボトルということは言わず、酒としか言わなかった。三和酒類には新しいボトルに日本のまったく新しい酒を入れようと言いました。

1985年発売の「いいちこシルエット」。瓶のデザインはガラス作家の故・石井康治さん1985年発売の「いいちこシルエット」。瓶のデザインはガラス作家の故・石井康治さん

それは当時の焼酎というイメージを一新したかったから。ウイスキーでもジンでもウオッカでもない新しい酒の世界をつくろうと思ったんです。いまでこそ焼酎は全国で普通に飲まれていますけれど、当時は全然市民権なかったですからね。「新しい酒」でなんとか打破したかった。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

――「いいちこパーソン」のボトルも斬新ですね。この瓶のデザインも石井さんが担当されたのですか。

それがですね、このとき石井さんはガラス工芸作家として独立した後で青森のガラス工房に行ったりしていて時間が取れなくて。彼は「お前が東洋ガラスの制作企画室のスタッフと組んでやればできるよ」と言うんです。で、仕方なく私がガラス瓶の設計も担当しました。

パーソンの瓶の形はキャンプなどでウイスキーやウオッカなどを入れる金属製のポケットボトルのようなイメージで、表面は出っ張っていて、裏面はへこんでいる。ガラスに英文字を直接印刷して、キャップは素朴なアルミキャップ。ところが企画して商品になるまで2年もかかってしまいました。この瓶の形状は大量生産には不向きだという理由でガラス会社から難色を示され、それを説得するのと、アルミのキャップが作れる工場を見つけるのに時間がかかってしまった。

発売直後に、カルバンクラインが香水「CK-one」を似たようなガラス瓶で発売したんですよ。それが日本の女性誌に取り上げられて、「いいちこパーソンみたいなボトルも素敵」なんて書いてあるんです(笑) 。あくまでも僕の方が先ですからね。

「いいちこパーソン」の販促ポスター。撮影者は有賀久一(ありが・ひさいち)。ありがとう(ありが・9+1)をもじった河北さんのペンネーム「いいちこパーソン」の販促ポスター。撮影者は有賀久一(ありが・ひさいち)。ありがとう(ありが・9+1)をもじった河北さんのペンネーム

――「いいちこフラスコボトル」も素敵なデザインです。飲んだ後は花瓶などに使う人も多いと聞きます。

これはハリオというガラス会社に作ってもらいましたが、このボトルだけは他社もマネしないですね。とてもじゃないけれどマネできないというか。製造方法はまず首の部分だけ試験管のように作って、丸く膨らんでいる部分は吹いて膨らませます。それをつなぐという手間のかかる製品なんです。これは2000年にグッドデザイン賞(公益財団法人日本デザイン振興会)をいただきました。

――「いいちこスペシャル」の瓶も2006年にグッドデザイン賞を受賞されています。この開発の際の狙いはどんなものですか。

単純にカッコいいのを作ろうと思いました。こだわったのは商品ラベルのないボトル。「いいちこフラスコボトル」も「いいちこ空山独酌(くうざんどくしゃく)」もそうですが、瓶に商品ラベルを貼るのをやめようと。だって、ボトルの表のラベルを自分に向けたら、向かいのお客さんは裏側を見て飲むことになる。それっていやだなあと思いました。

  • 左が「いいちこフラスコボトル」、右が「いいちこスペシャル」。商品ラベルは首の周囲に貼られている左が「いいちこフラスコボトル」、右が「いいちこスペシャル」。商品ラベルは首の周囲に貼られている
  • 「いいちこ空山独酌」も商品ラベルは瓶には貼らず首部分に配置「いいちこ空山独酌」も商品ラベルは瓶には貼らず首部分に配置

――「いいちこスーパー」のボトルは青いガラスが印象的です。

ヨーロッパのレストランで出てきた水差しの青色のガラスボトルが素敵でね。これをやってみたいと思った。形は「いいちこシルエット」の瓶の開発のときに石井さんが考え出した2本のうちの1本です。六角形のデザインで。表面だけ液体に浸けて着色する「泥浸け」という技術なんですけれど、ガラス会社にお願いしたら、これはできませんと。そこを頼んで研究してもらいようやく実現したものです。表と裏に赤と黄色の商品ラベルを貼ってありますが、簡単に剥がせるようにしています。

「いいちこスーパー」の六角形のボトル。両面それぞれに剥がしやすい赤と黄色の商品ラベルシールが
貼られている「いいちこスーパー」の六角形のボトル。両面それぞれに剥がしやすい赤と黄色の商品ラベルシールが貼られている

――新しいボトルには新しい酒をと。デザイナーはパッケージだけでなく、その中身にも踏み込むのですね。

そこはね、デザインとは何か、ということにつながってきます。以前イタリアで現地の有名デザイナーたちとシンポジウムをやったことがあります。そこで彼らに「デザインと言われたら何を考えるか」と聞いた。すると、「生活や暮らし」だと言うんです。これ、日本人に聞いたら、おそらく十中八九「色や形」と答えるでしょ。

――雑誌や本ならそのレイアウトとか装丁。イラストや写真や文章の配置とか。

そう。それって、アウトプットするデザインのことですよね。形から始まるデザインというのは産業デザインの考え方です。日本の美術の教科書にデザインはちらっとしか取り上げられていない。椅子などの家具のデザインとかでね。

河北さんが商品企画から関わった「いいちこ」のボトル(撮影場所:日本べリエールアートセンター)河北さんが商品企画から関わった「いいちこ」のボトル(撮影場所:日本べリエールアートセンター)

ところが、例えば英国なんて全然違います。デザインという教科書がしっかりある。小学校のデザインの授業で牛乳を取り上げるなら、どのように牛を育てて、搾乳して、製品ができるのか。どうして今はガラス瓶じゃなく紙パックで売られているのか。さらに、どうすれば商品として牛乳を安く、美味しくつくれるのか、ということをくわしく教えてくれる。これが一番大事なところですよね。実はこれが「デザイン」なんですよ。

どうすればもっと人間が幸せになれるか、それを考えるのがデザインだと。牛乳やオレンジジュースといった生活に密着したもの。生活や暮らし、街を見渡して、人間の生命活動、文化を知らないと分からないことです。

日本ではこうしたデザインの考え方の理解は難しいでしょうね。それでもなんとかできることからしていきたいと考えて、雑誌1冊から始めようとしたのが「季刊iichiko」なんです。私が監修者と発行人をつとめて、編集長は学者の山本哲士(やまもと・てつじ)さんにやってもらっています。

1986年に創刊された「季刊iichiko」の表紙。2024年夏号の特集テーマは「日本文学史を編みなおす〈古代篇〉2」1986年に創刊された「季刊iichiko」の表紙。2024年夏号の特集テーマは「日本文学史を編みなおす〈古代篇〉2」

河北さんが商品企画から関わった「いいちこ」のボトル(撮影場所:日本べリエールアートセンター)河北さんが商品企画から関わった「いいちこ」のボトル(撮影場所:日本べリエールアートセンター)
1986年に創刊された「季刊iichiko」の表紙。2024年夏号の特集テーマは「日本文学史を編みなおす〈古代篇〉2」1986年に創刊された「季刊iichiko」の表紙。2024年夏号の特集テーマは「日本文学史を編みなおす〈古代篇〉2」

会社を立ち上げて50年、そのうち三和酒類の仕事は41年。 こうしてあれこれ振り返ってみて、ポスターやCM、雑誌広告、ボトルやそこに入れるお酒の商品企画、「季刊iichiko」監修など、「いいちこ」に関わってきた時間や経験は私の人生そのものだなと思います。これまで関わった人との出会いもすべて偶然じゃなく必然なんだって、今になってつくづく思いますね。

いいちこ躍進を支えたアートディレクターの河北秀也さん

PROFILE

河北秀也(かわきた・ひでや)

1947年、福岡県久留米市生まれ。1964年、東京藝術大学美術学部入学。大学2年時、サクマ製菓「いちごみるく」のデザインを手がける。1971年、東京藝術大学美術学部工芸科ビジュアル・デザイン専攻卒業。1972年、「営団地下鉄(現・東京メトロ)地下鉄路線図」のデザインを制作。1974年、株式会社日本ベリエールアートセンター設立。1974~82年「地下鉄マナーポスター」シリーズ、1983年から現在まで三和酒類株式会社の本格麦焼酎「いいちこ」の商品企画、パッケージ、テレビCM、ポスター、雑誌広告、出版物などを手がける。1986年より「季刊iichiko」を監修。「いいちこ」のCMテーマソングとしてビリー・バンバンに楽曲使用をオファー、2009年には「いいちこ日田全麹」CMで坂本冬美がカバーした「また君に恋してる」が大ヒット。

1992~2003(平成15)年、東北芸術工科大学デザイン工学部情報デザイン学科教授。2003~15年、東京藝術大学美術学部デザイン科教授。2024年10月現在、東京藝術大学名誉教授。主著に「河北秀也のデザイン原論」(1989年、新曜社)、「風景の中の思想―いいちこポスター物語」(1995年)、「風景からの手紙―いいちこポスター物語2」(1996年)、「透明な滲み―いいちこポスター物語3」(1997年、以上ビジネス社)、「元祖!日本のマナーポスター」(2008年、グラフィック社)、「デザインの場所」(2014年、東京藝術大学出版会)、「場所のこころとことば デザイン資本の精神」(2021年、文化科学高等研究院出版局)など。2023年2月11日~3月29日、大分県立美術館で企画展「イメージの力 河北秀也のiichiko design」開催。