女優・モデル衛藤 美彩
――大分市ご出身の衛藤さん。小中学生の頃はどのような子ども時代を過ごされましたか。
私は兄と弟がいる3きょうだいの真ん中です。兄も弟も野球をしていて、友達もたくさん遊びに来ていたので、男の子たちと一緒になって遊んでいました。ドッジボールをしたり、木に登ったり、こうもりを捕まえに行くこともありました(笑)。自然豊かな環境の中で、思いっきり遊ぶ、やんちゃでおてんばな子どもでした。
――大分の豊かな自然の中で、のびのびと育ったのですね。思い出深い遊び場はありますか。
母が車でいろんなところに連れて行ってくれました。祖母が住んでいた庄内(しょうない)や挾間(はさま)、大分川にもよく遊びに行きました。河川敷ではワンちゃんのお散歩をしたり、キャッチボールをしたり。毎年花火を観に行ったり。
挾間といえば、大分大学医学部附属病院(医大)がありますが、私、4歳の頃、脚に腫瘍ができて医大に入院していたんです。病気の影響で小学生の頃までは運動に関する制限がありました。中学生になると制限がなくなったので、バレーボール部に入り部活に打ち込むことができました。
――中学時代はバレーボール部で活動されていたのですね。そして、大分県立情報科学高校に進学されます。
はい。私、元々パソコンが好きだったんです。高校を卒業したら、大学に行くより早く社会に出たいと思っていたので、となると情報科学高校か、大分県立大分商業高校の2択になるんです。どちらか迷って、制服が決め手で情報科学高校にしました。当時の情報科学高校は商業系コースと工業系コースのどちらも学べる高校でカリキュラムが豊富でした。私は商業系に行きたくて、さらに経営にも興味があったので情報経営科(当時の名称)を選択しました。在学中に簿記の資格も取りました。ちなみに大分商業は夫(埼玉西武ライオンズ 源田壮亮選手)の母校です。
――高校在学中から芸能活動を始められたそうですね。学業との両立は大変だったのでは。
情報雑誌のモデルを高校に入ってすぐから始めたのですが、芸能活動というより、最初は部活動のような感覚でした。大分に「CHIME(チャイム)」というフリーペーパーの学生情報誌があって、大分の女の子たちに登場してもらって盛り上げようという企画の時、声をかけてもらったんです。というのも、その企画をしていたのが、私の兄の友人だったんです。「たまに撮影に行くみたいなんだけど」って母に相談したら「いいよ」って。最初は本当にそれぐらいゆるい感じでした。
その「CHIME」のモデルをしている子たち、私も含めて6人ぐらいが、気づいたら大分市内のちょっとした有名人になっていました。多分、当時の地元の学生だったら知らない人はいないぐらいの感じだったと思います。それで、そのメンバーで、大分のアイドルグループ「CHIMO(チャイモ)」として、ソニー・ミュージックエンタテインメントからCDデビューすることになりました。それが15歳の時で、高3の時にはメインボーカル兼リーダーを務めさせてもらいました。
――大分のアイドルグループ「CHIMO」時代のライブはどのような場所でされていたのですか。
かんたん港園(フェリーさんふらわあの発着が間近で見られ、映画「恋空」のロケ地にもなった海沿いのスポット)、トキハわさだタウン(百貨店トキハ系列のショッピングモール)、若草公園(花がテーマの大分市内の都市公園)、別府タワー、パークプレイス大分(大分市内の複合施設)など。本当にいろいろな場所でライブをさせてもらいました。別府のクリスマスファンタジアの花火が上がる場所に特設ステージを作ってもらったこともありましたね。いつも来てくれるファンの方、女子高生も来てくれたりしました。
――芸能活動と学業と。充実した高校生活だったのですね。
そうですね。大分の青春時代でした。でも私としては仕事というより部活みたいな感覚でした。
――そして高校卒業後、本格的な芸能活動をスタートするため上京されます。
はい。実は、高1の時点で私の歌声を聞いた音楽プロダクションの方から「東京で本格的に活動しませんか」とお声をかけていただいていたんです。でも母は「高校は大分で出なさい」と。せっかくオファーをいただいたのにお断りすることになり、その時点で私は「終わった」と思いました。
当時はAKB48さんが大人気で、モーニング娘。さんも好きでしたし、ざっくりアイドルというか芸能人に憧れはありました。でも、大分から飛び出してまで、なにがなんでも叶えたい夢、というほど強い気持ちがなかったのもまた事実で。ところが、私が卒業するまで待ってくださっていたようで、卒業間近に改めてお声がけいただいたんです。そうして、なんだか導かれるように上京することになりました。
――大分での芸能活動の中で歌声が見いだされ、上京にいたったのですね。その後、約1万5000人の応募の中から「ミスマガジン2011」(主催:講談社)のグランプリに選出されました。
実は上京した日がミスマガジンの第一次審査の当日だったんです。今でもよく覚えています。「女優の登竜門だから」と母に説明してOKもらって。キャリーケースを持って、あか抜けない服を着て。水着にもなって。他の慣れている子たちがいろんなポーズを取っている中、私は棒立ち、またはピースみたいな(笑)。
「もうこんなの絶対受かるわけない」って思ってました。だって、朝、大分空港にいたのに、昼には東京で審査の撮影をしているんですよ。なにがなんだか訳が分からない状況だったのに、まさかのグランプリをいただいて。4月に上京して、6月にはもうグアムでDVDとか写真集とか撮っていたので、「なんだかすごいな、人生って」って思いました。
――上京当日にオーディションを受け、グランプリ受賞とは。そして、乃木坂46の1期生オーディションにも合格されます。
ミスマガジンのグランプリをいただいて、ソロでやっていこうかという話になっていたのですが、ソニー系列の方から「乃木坂46のオーディションあるよ、受けてみたら」とお話をいただいたんです。私としてはミスマガジンに受かったばっかりだし、そもそもミスマガジンも「たまたま受かっただけ」と思っていましたから、次のオーディションだなんて、受かるわけないと思っていました。ところが、これもまさかの合格で。
――ミスマガジンから乃木坂46。怒涛のオーディション、合格ラッシュ。衛藤さんの才能が見いだされた結果ですね。
上京に至るまでと、上京してすぐに見いだしていただいて、するするっと導かれた感じでしたね。でもその後2年半くらいはアンダーで全然表に出る機会がなくて、CD収録曲をステージで歌えない時期が続きましたから、とんとん拍子という感覚ではないです。
――乃木坂46加入後は苦労の時期があったのですね。ホームシックにはならなかったですか。
なりました。毎日泣いてました。母に電話して「もう帰りたい、帰りたい」って言ってました。でも東京に出ていく時、「大学に出すつもりで東京に行かせます。つらいことがあっても4年間は頑張りなさい。4年経ったら大分に帰ってくるかどうするか、その時にまた考えようね」って母と約束していたんです。だからなんとか頑張れました。私も今、娘が生まれてよく分かるのですが、18歳のひとり娘を東京に出すなんて、母親として尋常なメンタルじゃないですよね。母はすごいなあと思います。
――お母さまとの約束で頑張れたのですね。つらかった時期に元気をくれた大分の味はありますか。
母が握ったおにぎりが食べたくて。でも冷凍で送ってもらうのは大変なので、同じふりかけを探しました。あと、九州の「うまかっちゃん」っていう黄色い包装のラーメンも送ってもらいました。祖父は庄内梨*1をたんまり送ってくれました。「ひとりじゃ食べきれないからもう少し少なくして」って言っても、「頑張れ」っていっぱい送ってくれるんですよ。本当に地元の味には励まされました。*1 庄内梨:大分県由布市庄内町は梨の栽培が盛ん。幸水・豊水・新水など豊富な種類の梨を出荷している。
私、よくある「芸能人の駆け出しエピソード」は一通りやってるんです。モヤシ炒めばっかり食べてた、とか、カーテンの丈が足りなかった、とか(笑)。
――大分の味と節約料理で駆け出し時代を乗り越えたのですね。料理はもともとお得意なんですか。
家でも母の手伝いをしていたので。カレーとか定番メニューはもちろん、これとこれを使ったらこれができるな、みたいな感覚はあります。母はこうなることを見越してたのかな。東京で自炊を始めて驚いたのが、お醤油。フンドーキン醤油以外のお醤油を使ったことがなかったから。しかも全然甘くない。「お母さん、こっちのお醤油、からいんだよ」って電話しました(笑)。お店に行くとお味噌の種類がたくさんあることにも驚きました。
――東京のお醤油甘くない問題は、大分出身の方はみなさん驚かれるようですね。当時、同郷のお友達はいましたか。
幼稚園から一緒の親友も大学で東京に出てきていたので彼女が心の支えでした。彼女は今、CAさんです。他にも地元のお友達が4、5人いました。地元の友達が本当に支えてくれました。
――乃木坂46では、下積み時代を経て、7thシングル「バレッタ」で初の選抜メンバー、カップリング曲で初ユニットを務めた後、13thシングル「今、話したい誰かがいる」で初の十福神*2およびフロントポジションを務められました。ほかにもソロ写真集の発売、劇団スーパー・エキセントリック・シアター創立35周年公演への出演など各方面で活躍、2019年に東京・両国国技館で行われたソロコンサート、全国握手会をもって、約8年間所属した乃木坂46を卒業されました。華やかなご活躍の中、「大分県人である」という意識はお持ちでしたか。*2 十福神:乃木坂46のフォーメーションの1~2列目のメンバーを七福神にあやかり福神と呼ぶ。10 人の際には十福神、12人なら十二福神。
はい。それはずっとありました。乃木坂46には私ともうひとり大分県出身の子がいて、一緒に大分観光特使をさせていただきましたし、大分観光大使の指原莉乃(さしはら・りの)さん(元AKB48メンバー。現在はタレント、司会者、プロデューサーとして活躍)と「大分対決」みたいな企画をさせてもらったこともあります。九州ツアーだと福岡公演があるんですが、九州出身ということでMCをさせてもらっていました。野生のニホンザルで有名な高崎山自然動物園(大分市)にはまだ、私のサインが残っていると思いますよ。
祖父は脚が悪いのですが、福岡公演にはいつも来てくれて、「なんで美彩が真ん中じゃないんだー」とか言っていたそうです(笑)。親戚も友達もたくさん応援に来てくれました。
そうそう、私、東京に出てきて初めて「麦焼酎のソーダ割り」とか「麦焼酎の水割り」というものを知りました。私の父母はお酒が強く、麦焼酎が大好きで、家には一升瓶があって、飲み方はいつもロック。ロック以外の飲み方を見たことがなかったので、「焼酎薄めて飲んで美味しいの?」って感じでした。大分には美味しい麦焼酎がたくさんあるので、「これ大分の麦焼酎だよ」って友達にプレゼントしたこともあります。
――そして、「プロ野球ニュース」(フジテレビ系)のキャスターのお仕事をきっかけに知り合った同郷のプロ野球選手の源田壮亮さんとご結婚されました。ご結婚にあたり、同じ大分出身というのは大きな要因でしたか。
そうですね。出会った頃は、大分のCMソングでも盛り上がったり。「東京でこれ歌ってるの多分、私たちだけだよね」とか言いながら(笑)。私は大分市内でも大分駅近くの育ちですが、彼は同じ市内でも大分駅からちょっと離れたエリアなんです。だから、私が都会マウント取るんですよ(笑)。「園田ふとん店のCMや知らないでしょ」とか(笑)。大分駅近くにある百貨店のトキハ本店で午後イチに流れる「チャーンチャーン」って曲を歌っても彼は知らない。彼が行っていたのは総合スーパーの「トキハインダストリー」の方なんで(笑)。そんな地元ネタをふざけて言い合ったりしていました。
また、食の好みも大事ですよね。同じものを食べて美味しいと思えること。大分の味付けで私が作ったものも、全部美味しいって言ってくれました。
――同郷であることで意気投合したことに加えて、ご結婚の決め手はなんですか。
母が上京することになり、初めて彼を紹介しようと思っていた日、私に仕事が入ってしまって。当然、延期になるものとばかり思っていたら、「美彩がいなくても会うよ」って言うんです。見た目はほんわかしてるのに、男気あるんだなと思ってびっくりして。それが母もうれしかったらしく、私がいないところで「初めまして」をして、母が彼を質問攻めにしたみたいです。そしたら「僕は彼女を大事にしたいと言ってたよ」って、お母さんOKが出まして。
精神面では、お互い大事にしたいと思う部分が同じで、リスペクトし合えていると感じられることが大きいです。そしてやはり同じ大分育ちの「舌」ですね。
――同じ大分出身のご夫妻。家庭内で方言は使いますか。
大分弁は語尾に出るので、敬語になると消えちゃうのですが、家庭内では「いいよったなー」とか「そうっちゃ」とか、出ますね。でも年々消えていっているので「ダメだよ、私たち、このままだと大分ソウル消えちゃう」とか言ってます。私の母は強烈な大分弁なので、電話で話すとねじ戻しできるんですけどね。
――大分の郷土料理をご家庭で作ることはありますか。
あります。まずは「だんご汁」。小麦粉を帯状に伸ばした麺が大分空港内の売店などで売られているので、買って帰り、具材をたっぷり入れたお味噌汁は自分で作って麺を入れます。それから「吉野鶏めし」。給食でも出ますし、スーパーでも売ってますし、大分の子どもはみんな食べてると思います。私も夫も大好きなので、帰省時は必ず買って帰りますし、お取り寄せもしてます。2歳になる息子も「だんご汁」を「めんめん!」って言うんですよ。「吉野鶏めし」も大好きです。
――大分帰省時に立ち寄る場所などあれば教えてください。
空港から直行するのは別府の「甘味茶屋」さん。同じ別府の杉乃井ホテルさんは昨年、家族で1週間ぐらい宿泊して、息子がプールデビューしました。私は娘を妊娠中だったので、テラスにいたんですけどね。焼きそばの「かどや」は県内に何店舗かありますが、大分市内の本店に行くことが多いです。同郷夫婦なので、帰省が1回で済むのは本当にありがたいです。
――お子さんが生まれて改めて気づく、大分の魅力はありますか。
やはり自然の豊かさ。大分空港に降りた瞬間、空気が美味しいんです。緑が多くて、道が広くて。狭い道が多い東京とは全然違いますよね。流れている時間も違うと思います。東京だとみんな何かに追われているようで、自分も含めて「何に向かって生きているんだろう」なんて哲学的なことを考えたりするのですが、大分に帰ってくると、「今日も天気がいい」とか「空がきれいだ」というようなことを大切に生きている人が多いように思います。
実家に帰ると隣の畑のおじいちゃんが「美彩ちゃんか、大きなったな」って声をかけてくれて。「私もう31だよ、子どもも2人産んだんだよ」なんて話しているうちに、うるっときてしまって。ああ、地域の人たちの目に守られて育ててもらったんだなという、その恵み深さに震えました。東京ではなかなか難しいですよね。
私も夫も、豊かな緑、空の青、虫の声が共存する環境で育ったので、いざ自分が子育てをするようになって、正直、「大分で子育てできたら」と考えることはありますね。
――2人のお子さんのお母さんとなられた衛藤さん。今後の活動の展開について教えてください。
今は子育てに精いっぱいで、自分が自分じゃなくなっているような感覚なんです。スマホの検索履歴もすべて子どものことばかり。つい子どもの成長や発達にばかり目が向いていた時期もありました。そんな時、母から「子どもが生まれてまだ2年かそこらで、子育て楽しめないのは当然だよ。私なんて子育て35年くらいやって、やっと今、楽しかったって言えるぐらいだよ」って言われたんです。そして「子どもの悪いところではなく良いところを100個言えるように」とアドバイスをもらい、はっと気づいて。夫と共に子どもの「長所ノート」をつけるようになりました。
息子はどうやら運動神経がいいらしく、やんちゃの域を超えた動きをするのですが、義母からは「息子もそうだったよ、(多少けがをしても)生きていれば大丈夫だよ」と言ってもらい、勇気づけられました。そんな私の母としての、女性としての経験が、いつか誰かの役に立ったらいいなという思いがあります。
アイドル時代はグループで何万人もの人を照らすことができたと思います。今、私はひとりですし、たくさんの人を照らすことはできなくても、やはり人に貢献したいという気持ちが強いです。ママになって悩みながらも一つ一つ解決していくこと。自宅ではちょんまげ結びにして、すっぴんで、夜には疲れ果てている姿も含めて(笑)、本当の私を知っていただく機会を作っていきたいなと思っています。
それから、私がテレビに出ると、祖父が「寿命が1年延びた」なんて言ってくれるので、自分が抱えられる範囲の人、家族をまずは大事にしていきたいです。
PROFILE
衛藤美彩(えとう・みさ)
1993年、大分県大分市出身。大分県立情報科学高校在学中に大分発アイドルグループ「CHIMO(チャイモ)」で活動。高校を卒業した2011年に上京後、「ミスマガジン2011」グランプリ受賞。同年、乃木坂46の1期生オーディションに合格し、翌年CDデビュー。テレビ、ラジオ、舞台など様々な活動の中、雑誌「美人百花」(角川春樹事務所)では2017年からレギュラーモデルを務める。2019年3月に卒業ソロコンサートを開催し、同月末に惜しまれながらグループ卒業。同年10月にプロ野球球団 埼玉西武ライオンズの源田壮亮選手と結婚。2020年に映画「静かな雨」で初主演を務めるなど、幅広く活躍。現在、2歳男児、4カ月女児(2024年4月取材時)の2児の母。