俳優・ナレーター石丸 謙二郎
――NHKラジオの「石丸謙二郎の山カフェ」を聞いていると、石丸さんは本当に山歩きがお好きだなあと感じます。石丸さんが最初に山に登ったのはいつ頃のことですか。
親が銀行員で大分県内の転勤族でした。小学3年から5年生まで臼杵(うすき)市に住んでいたんだけど、それが僕が大分県で一番長くいた場所です。そこの福良ヶ丘(ふくらがおか)小学校に通っていましてね、裏山が鎮南山(ちんなんざん、標高536m)だったんです。上級生に連れられて、日曜日とかに山に入っていくようになったんですよ。おふくろがおにぎり2個作ってくれてね。水筒を斜めにかけて。
その時は山に登るって発想はないんですよ。自然の中に行くと面白いじゃないですか。坂道やハーフパイプみたいな土手をたったったっと走ったり、木登りしたりとかね。春から秋まではグミやイチゴの実など食べ物もいっぱいあったし。山芋を掘って家に持ち帰って食べるとかね。そういう自然の中で、遊ぶことを覚えていきました。
1年ぐらいした時かな、その遊び場に「てっぺん」があることが分かったんですよ。「なんだこれ? あれ? これ以上高いところがないぞ」って見下ろしたら、自分たちの学校とか見えるわけですよ。それまでは木が邪魔していて、てっぺんに行くまで周囲が見えなかったんですね。
あれはお前んちだ、あそこにはお寺があって、三重塔があって、あれ駅だ、あ、今列車が走るよとか、向こうは海じゃーって。世界がばっと広がって、その時にふっと後ろを見るとね、そこよりもうちょっと高いところがあった。ちょっと下ってまた10分ぐらい歩いて行ったら、そこに「鎮南山」って書いてあったんですよ。今までいたてっぺんは何だったんだろう。そこから夕日の方向を見ると遥か先に山並みが見えて、明らかにでかいんですよ。こりゃなんかあると思って、家に帰って親父にその話をしたら、「あれはな、くじゅう連山っていう大分屈指の高い山々だ。いつかあれ登ろうか」って言ってくれたのが小学校5年のことです。
翌年、父親がそのくじゅう連山のすぐ近くの竹田市に転勤になって。初めて家族でくじゅう連山に登ったわけですよ。初登山。くじゅう連山の最高点である中岳(1791m)の頂上まで行って。その頃は、かやぶき屋根だった「法華院(ほっけいん)温泉山荘」に泊まりました。山の中で外泊でしょう。ご飯食べて、温泉に入って。まあ、この楽しさといったらもう。その時の家族写真を見ると、みんなぶすっとしてるんだけど、僕だけケケケケと笑ってる。そういう子どもだったんです。
――石丸さんは何人きょうだいでいらっしゃいますか。
3人きょうだい、兄貴と僕と妹なんだけど。まあ、僕が1番元気が良くてね。帰りに重たい荷物をしょわされたの。それが10円玉の袋だった。1000枚ぐらい入っていたかもしれない。山荘に泊まった人の小銭を銀行員の親父が預かって持ち帰る。銀行員だから集金にね。今だから分かるんですよ。なんだ、山登りはついでだったのかと。
親父は登山に興味なかったんです。その代わり、海釣りが好きな人で、いつも僕と一緒に釣りに行って。釣りに行くのは、きょうだいの中で僕だけなんですよ。臼杵に住んでいた時に、家で櫓(ろ)舟を借りて、僕が舟を漕いでハゲ釣りとかね。あ、カワハギのことです。九州ではハゲっていうんですよ。
リアス海岸の静かな海で、真珠の養殖のいかだがあったんで、そこに舟をくくりつけてその横で釣る。当時はよく釣れましたよ。まだ魚が豊かな時代ね。釣り竿を使わない手釣りなんです。糸を直接手で持って指の感覚でグググッと来たらヒューッと上げてまた下ろすんですよ。テグスと針さえあれば釣れました。餌はボイルしたエビをチョキチョキチョキと切ったやつ。
実はね、昨日カワハギ釣りをやってきました。竿で。大変でしたよ。
――今でもちょくちょく釣りに行かれるんですか。
行きますよ。魚釣りは大好きだから。昨日は釣れた7匹をさばきました。(写真を見せながら)これを日本酒でいただくんですよ。カワハギをふぐ刺しのように引いて、真ん中のは肝。小学生の頃おふくろがさばいていたのを見て覚えて、自分でもさばくようになったんです。
朝にはね、カワハギご飯にして頭までちゃんと使います。究極ですよね。海のカワハギ、陸のヘラブナと言って、難しさの両横綱です。昨日は初心者に教える日だったんですよ。だから、僕はあまり釣らなかったんだけど。
海と山は食生活にも関係してきますね。釣りがとてつもなく好きになったのは大分の海があったから。関サバが有名だけれど、サバもアジも釣りに行けば、当時は100匹単位で釣れました。それを全部食べるわけですよ。いろんな形でね。
ミンチの機械を買ってきて、残ったらミンチにして冷蔵庫に入れて団子にして食べたり。骨も食べてたから、僕は未だに骨が丈夫で、おかげで骨折しないんですよ。山とかで相当高いところから落ちたこともあったけれど、骨折だけはしたことがない(笑)。
――山登りの初心者に向けて、アドバイスをいただけますか。
あらかじめ言いますが、私の考えは普通の人とちょっと違います。初心者向けのガイドブックに則ってやるというのでもいいんだけど、それって時間がかかるんですよ。まずこうした準備をして、この山にまず登って、次にこの山とか順番があるでしょう。関東地方にお住まいの方ならまず高尾山(標高599m)に行って、とかね。でも高尾山なんか行かなくていいの。
晴れた日に、きれいな景色が見られる山に行くことです。ロープウェイとかシャトルバスとかがある3000m級の山とか。例えば乗鞍岳(のりくらだけ)なら、シャトルバス(積雪期間は運休)で約2700mのところまで行って、最後の約300mを登ればいいんですよ。ゆっくり歩く。ものすごく景色がきれいだから。そこにある山小屋でも泊まればいいんです。山小屋はきれいですよ。朝焼け夕焼けを見て。まず1番最高の条件で2~3回登ってみる。
尾瀬でもいいんですよ。ただ、みんな尾瀬なら簡単だと思うけど、尾瀬は大変ですからね。アップダウンがあって結構歩きますから。木曽駒ヶ岳なら千畳敷(せんじょうじき)というところまでバスとロープウェイで行って、上をちょっと歩きゃいいぐらいで。ホテルもお寺もあるし。秋の紅葉の時、この世のものと思えませんよ。「今僕が見てるのは、何かの間違いだ。色を着けている」としか思えないような素敵なところがあるんですよ。
初心者こそ、まず1番いいところにレインウエアなんか使わなくていい晴れた日に行って、「いいとこ取り」を何回かしてくればいいんです。そしたら、そのうちほかの山にも行きたくなりますよ。自分で計画して行った時に、天気がよくなかったとしても、たまたまだと思えるじゃないですか。みんなに連れて行かれると、雨だろうが何だろうが行っちゃいますからね。雨だったら本来は行かなきゃいいんです。山登りで苦労したらだめですよ、楽に楽に。
――山は登ったことがありますが、これ何が楽しいんだろうと思っていました。
そうでしょう。苦労してるからね。人と一緒に行くと、後になって「あれよかったね」って言われるけど、本当かなと思うことがあります。飯もそんなに美味しくなかったしなあ、となる。苦労するのはね、もうだいぶ回数を重ねてからでいいんです。小さい頃には天気が悪ければ外に遊びには行かないでしょう。雨の日にわざわざ苦労して登らない方がいい。
大分ならば、由布岳(ゆふだけ)とか、県内の近場の山ならば、また来れるからキャンセルもしやすいし。今日はやめとこうって言えば、友達も「うん、そうだね」で済むから。そういう登り方をしている人はね、楽しいことばっかり思い出に残って、また行こうって気になるんですよ。
――山登りの「いいとこ取り」をするなら季節はいつがいいですか。
それは春と秋ですよ。花が咲く時期と紅葉の時期。大分ならば冬もいいところがあります。ロープウェイで鶴見岳に登ると、冬には霧氷(むひょう)が見られます。あの美しさはやっぱり素晴らしいですよ。それをロープウェイでひょいと上がって、頂上まで小一時間歩くだけでいいんだから。
帰りはロープウェイで下りればいい。そうしたら全く疲れません。登山ってね、下りさえなければ疲れないものなんですよ。次の日筋肉痛なんか一切ないです。不思議でしょう。僕、実験は何度もしています。「べっぷ鶴見岳一気登山」ってイベントが毎年4月にあるんです。去年僕も出たんですよ。3時間ちょっとで登ったんだけど、下りはロープウェイで下りる。次の日、仕事があったんだけど、何の疲れも出ませんでした。走って登ったんですけれどね。
これね、実験で科学者が証明してるらしいです。人間は坂を下れるように筋肉ができていないらしい。四足歩行の動物だったら、下るとき前足から進むでしょう。二足歩行の人間は下りに慣れてないんですよ。
僕は、下りがなければどんな山でも全く疲れないです。富士山でも下りがなかったら、次の日も普通に仕事できます。それは登山やる人はみんな知ってる。「下りさえなければ……」って。前まで登っていた方が、お年を召して山を登らなくなる理由は下りがあるから。膝とか足首とか腰、筋肉を痛めるのは下りです。だから例えば鶴見岳にロープウェイで登って、下りだけ歩いて降りると筋肉痛になります。
――高校時代(大分県立大分上野丘高校)に演劇部を作って、演劇活動を始められました。その後、日本大学芸術学部演劇学科に進まれます。演劇の道に進もうと思ったきっかけは何だったのでしょうか。
きっかけはあるのかな。そこのところ、曖昧なんですよね。役者になりたい、演劇大好き、とかじゃない。絵描くのも好きだし、スポーツも大好きですからね。東京で出会ったつかこうへいさんからも、「お前のは、芝居じゃなくてスポーツだからね」って言われて、そうだなって思っていた。体を動かしてるのが1番好きだったからかな。
大学時代には、お芝居を観ても、これという面白いものに出合えなくて、それならばアメリカに行って演劇を学んでみようかと思ったのね。山登りは上京してからも続けていたけれど、このままだったら役者になれないなと、山登りを封印しました。ついでに大学も中退して、アパートも引き払って、ホテルの住み込みのアルバイトで働き出して。かっこよく言えば、退路を断った。だけど実のところ何していいか分かんないんですよ。21歳の頃です。「さあ、どうしよう」と。
――お好きな山登りも封印されて、退路を断って、進むは役者の道ということだったんでしょうか。
当時、1日にアルバイトを3つやってたんですよ。ビル掃除と居酒屋とホテルの住み込み。朝10時から昼の1時までちょうど3時間寝る。あとは全部働いていた。そうしてお金を貯めてアメリカに行こうと思ってたんだけど。当時は1ドルが360円で、まだビザ(査証)がいる時代だったから、アメリカ大使館に行ってお金があることを証明しなきゃいけない。通帳でいいから最低1万ドルの残高を見せろって言われたけれど、全然足りなかった。
誰か投資かなんかで増やし方を教えてくれないかなと思ったら、いい人がいて。少し増やしてあげるから通帳貸りるよって言ったその人に全部持ち逃げされちゃった。アメリカに行くからと仲間に送別会まで開いてもらったのに、お金がなくて行けなくなって、なんてこっちゃって。
――なんと。本当になんてこっちゃですね。でも芝居の道はあきらめなかった。
その頃に住み込みで働いていたホテルのすぐ近くで、たまたま、つかこうへい事務所がミュージカルの舞台の稽古をやっていて、そこで踊れる男の人を探していたんです。当時男性でダンスができる人って、ほとんどいなかったんですよ。
舞台の裏側から見ていたら、つかさんが「ちょっと踊ってみろ」と。こんな感じかなとやってみたら、「なんだ踊れるじゃないか」ということで、舞台で踊ることになりました。つかこうへいさんって、スタッフだろうと役者だろうと、そこにいる人を誰でもかまわず使うんです。それが「サロメ」っていう、つかさんの作品の中で唯一の失敗作みたいな(笑)。
次の芝居の「いつも心に太陽を」っていう新作を作る時に、またつかさんから呼ばれました。つかこうへい事務所は劇団員を抱えず、舞台の都度、人を集めるんです。その時には平田満、風間杜夫、僕。それから長谷川康夫、高野嗣郎とか、本当に少ない人数で、稽古をやって。それが私の俳優としてのデビューになりました。退路を断ってから4年目の時ですね。当時、劇団の稽古場はなくて、東京・渋谷の西武劇場(現PARCO劇場)のそばのプレハブみたいなスペースを借りてやっていました。
――つかこうへい事務所の芝居の中枢メンバーとしての活躍が始まったのですね。
それまであまり面白い芝居に出合えなくて、アメリカに行こうと思っていた頃、実はつかさんの芝居だけは面白いと思って観ていたんですよ。というか、面白過ぎて、ちょっとすさまじ過ぎて、とても自分が入れてもらえるようなところじゃないと思っていた。
僕が「サロメ」に出た時はオーディションに3000人ぐらい集めて絞っていったのに、僕はたまたま近くに住んでいたからというだけで、裏から入ったようなもんでしょう。体力だけは異常にあったから、いくら暴れさせても潰れない。声は変だし、まともにセリフしゃべれないんだけど、こいつは面白い奴だとつかさんは評価してくれたようです。
「いつも心に太陽を」でパンツ一丁で客席に降りて暴れて踊ってね、2作目は短パン一丁で「広島に原爆を落とす日」。パンツ一丁が舞台衣装。僕が24歳から29歳までの5年間というのは、つかこうへいさん自身、天才の名をほしいままにした時代。芝居を観た人たちが影響を受けて新しい劇団をいっぱい作っていったぐらいで。稽古も求められるものも厳しかったけれど、舞台本番が異常に面白かったです。芝居ってこんなに面白いのかっていうぐらい面白くて。
――つかこうへいさんは1982年に一度芝居をやめて、小説やエッセーの執筆活動に入られました。その影響は大きかったのではないですか。
そうですね。僕が29歳の時につかさんが芝居をやめちゃって、ほっぽり出されたから、その後は仕事がないんですよ。30過ぎても年収10万円ぐらいでしたからね。10万円の確定申告をすると1万円戻ってくる。それがうれしくてね。確定申告の時はすごく恥ずかしかったですよ。税務署の窓口に行ったらスタッフの方がやり方を教えてくれるんだけど、教えてくれながら、「この人、将来どうなるんだろう」っていう目で僕の顔をジーッと見ているの。「あーそうだよな」と思いました。
それでも、毎日が面白かったですね。不安はあったけれど、鈍感ではありましたね。楽しかったんです。29歳でつかさんと別れて、新たに入った事務所には所属しているだけみたいな。31歳からテレビ番組の「おーわらナイト」(テレビ東京系)のナレーションを始めたから、少しだけ収入はあった。ドラマもちょろちょろ、通行人AとかBとかね。33歳から紀行番組「世界の車窓から」(テレビ朝日系)のナレーションの仕事を始めるわけだから、人生ってなんとかなりますわね。
PROFILE
石丸謙二郎(いしまる・けんじろう)
1953年生まれ、大分県出身。1978年、つかこうへい事務所の舞台「いつも心に太陽を」でデビュー。1987年から現在も続く「世界の車窓から」(テレビ朝日系)のナレーションを務める。2018年から「石丸謙二郎の山カフェ」(NHKラジオ第1、毎週土曜8時5分)で「マスター」としてパーソナリティーを担当。2020年から山岳雑誌「岳人」に墨絵&エッセー「野筆を片手に」を毎月掲載するほか、落ち着いたトーンの声質と渋みのある演技で、テレビ・舞台・映画と幅広く活動。プライベートでは多趣味なアウトドア派。ウインドサーフィン、登山、岩登り、ピアノ、釣りを趣味としている。著書に「犬は棒に当たってみなけりゃ分からない」「台詞は喋ってみなけりゃ分からない」「蕎麦は食ってみなけりゃ分からない」「山は登ってみなけりゃ分からない」(敬文舎)、「山へようこそ―山小屋に爪楊枝(つまようじ)はない」(中央公論新社)など。