講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

大分ゆかりのあの人 第12回【後編】声優には遅いと言われ、
講談入門は40歳過ぎ。
でも人生に無駄なことは1つもない

講談師、ナレーター・声優一龍斎 貞弥

講談師として、ナレーター・声優として活躍されている一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん。大分県臼杵(うすき)市内の紅葉の美しい古刹、普現(ふげん)寺に生まれ育ち、大学進学を機に上京。就職・退社、声優養成所通い、声優、さらに子育て。40歳過ぎに講談師弟子入り、2022年に真打ちに昇進されました。声優の道に入った経緯、観光大使を務める臼杵市と常陸太田(ひたちおおた)市との関わり、地元大分の魅力などを伺いました。 前編はこちら 写真:三井公一

褒められるって子どもにとって大事ですね

――講談師はもちろん、ナレーターや声優という「声のプロ」のお仕事に就かれた経緯を教えてください。ご自分のお声でお仕事をしていこうと思われたきっかけは何だったのでしょう。

ずっと遡ると小学生の頃、放送クラブで校内放送を担当した時に、放送を耳にした、学校近隣のお友達のお母さんから、「いい声しちょるね。よく聞いているわよ、毎日」なんて言われて、すごくうれしかったんです。そこで初めて声というのは人によって違うんだなって気づいて。それからだと思います、声を意識するようになったのは。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

人前で何かやるのは嫌いではなかったと思いますね。運動会とか文化祭とか、お芝居の出し物とかの学校行事があれば積極的にやりたい子でした。でもハチャメチャにお喋りとか、そういうのでは全然ないんですよ。ただ、生まれ育った実家がお寺だったという環境が性格に影響しているかもしれません。人が集まる行事がいっぱいあって、お客様がいらしたら挨拶しなさいって、朝早くから引っ張り出されて、お手伝いをしたり。父の隣に座ってお経を読むこともありました。

小学校5年生の頃、仲が良かったお友達が、ものすごくピアノが上手で、憧れちゃったんですね。こんなにピアノが弾けたら楽しいだろうなと自分も始めて、中学3年くらいまではまりまして、大学受験で忙しくなるまで趣味で続けていました。

ピアノの先生が優しかったんです。優しく褒めてくれたんですよね。褒められると、猿も私も木に登りますから。褒められるって子どもにとって大事ですね。思えば小学生の頃に声を褒められたことも今の仕事につながっていますし。ピアノも褒められて楽しくて、一生懸命練習して、いろんな曲を弾けるようになることが楽しくて。そうそう、同時期にお琴と三味線も始めたんですよ。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

ピアノと並行して琴や三味線のお稽古も

家に曾祖母が使っていたお琴と三味線があったので、ちょっと弾いてみたいと思いました。お琴の先生が臼杵市の方で、野津町(のつまち)でお稽古場を借りて教えてくれるちょうどいい機会があり、親がそれを聞いてきて、「やる」って2つ返事で始めました。

三味線は後々お琴の先生から本格的に習いました。お琴が上達して最終段階の「師範」のお免状はお琴と三味線で「琴・三絃教授」という形になるので、三味線も必修だったんです。師範が視野に入ってきてからお琴と同じ先生に長唄三味線を教えてもらうことになりました。

――ピアノとお琴と三味線。お寺のお手伝い。忙しい小学生でしたね。

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最初に三味線に触れたのはピアノと同じ小学校5年生の頃。その時は娯楽要素の強い、端唄(はうた)とか小唄とかの三味線を教えてくれる先生が、野津町のそばに住んでいまして。その方はもともと神戸で芸者さんをやっていらした方で、その時はもうご高齢だったのですが、「金毘羅船々(こんぴらふねふね)」のような、口伝えでの手ほどきを受けました。

自分では忙しいなんて思いませんでしたよ。いっぽうで、毎日のように自転車に乗って山の中を走り回っていました。お寺の屋根に登ったり、秘密基地をつくったりとかして。本堂にある普賢菩薩(ふげんぼさつ)の3mぐらいある大きな台座の上から度胸試しで飛び降りたりとか(笑)。なにがあんなに楽しかったのかな。本当に楽しく遊び回っていましたね。中学時代には軟式テニスもやっていたし、中3で吹奏楽部に誘われて、そこでピアノを弾いたりもしました。

――高校は大分市内の進学校に入学された。やはり忙しい高校生だったのですか。

高校(大分県立大分上野丘高校)では合唱部に入りました。入学した年の「NHK全国学校音楽コンクール」西日本大会の会場は沖縄だと聞いて、入部した1年生がいっぱいいて、私もその1人でした。結果は、県で優勝して沖縄に行けたんです。2年生の時も優勝して金沢に行けました。みんなでコンクールを目指して練習することがすごく楽しかったんです。

サービス業に興味が湧き外資系ホテルに入社

――日本女子大学文学部国文学科に入学されて、それを機に上京されたのですね。

はい。大学では文学というより日本語に興味が湧きました。卒論は形容詞の意味論をテーマに選びました。当時思ったのは、日本語の形容詞は言葉の中でも、非常に多様性があって豊かだということ。例えば英語で、beautifulの訳語に綺麗だとか美しいとか麗しいとか素晴らしいとかいろんな意味があてはまる。その中から綺麗と美しいの違いはどこにあるのか。麗しいとの違いは何か。細かく深い言葉の世界に惹かれていきました。

サークルは4年間放送研究会に在籍しました。アナウンサーを目指す人はほとんどおらず、趣味的に楽しく。活動は週に1回で、夏合宿もあって、発声方法やナレーションとか朗読の技術トレーニングなど、熱心に練習しましたよ。

――1986年に大学を卒業して、アナウンサーとか声優ではなくホテルに就職されましたね。

記念受験だけはしておこうとテレビ局は受けたんです。でも全く身も入ってなくて、箸にも棒にも掛からずに落ちたんですが、ただそれぐらいの気持ちしかなくて。たまたまホテル勤務の知人から仕事の話を聞いてサービス業に興味が湧き、サービス業に行くんだったら、最高峰のサービスを学びたいと思い、日本ヒルトンに入社しました。ヒルトンではゲストリレーションズオフィサーと言われる、いわゆるVIP対応のコンシェルジュを担当しました。やること、覚えることがとても多く、英語を使わないといけないなど新人には大変な部署でした。

ホテルの業務は世界の縮図のようでもあり、いろいろな人が交錯するワンダーランドで、サービス業を内側から学べる、すごく興味深い世界でした。しかし、1年しないうちに、会社組織で働くのって大変なことだなと思い、この組織の中で、私はキャリアを積んでいけるんだろうかと迷い始めました。

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会社員は初対面の人に自分の会社名を言ってから名前を名乗りますよね。しかし組織の人間であることを前提として仕事をすることに違和感を感じてしまい、自分の名前だけで仕事をしたいと思い立った。では何をすればいいんだろう。自分が興味のある仕事をもう1回洗い直してみようと。職業辞典みたいな本を買ってきて、消去法で大体の方向を決めて、自分がピンと来て楽しいと思える仕事、自分の適性を考えた結果、もうこれは「声の仕事」しかないという結論になりました。

――ではここから声優の道を目指されたのですか。

ところがですね、声の仕事をしようと決めてホテルを退職したものの、それから知り合いの縁に引きずられて1年半ぐらい別の仕事をしていたんです。博覧会とかパビリオンでの新商品展示などのイベントの、ナレーターコンパニオンの仕事を半年ぐらい、その後、たまたま求人を見つけて興味を抱いた映像制作会社の面接を受けて就職し、アシスタントプロデューサーとして1年ちょっと働きました。

いまから声優を目指すのは「もう遅い」

――ホテル勤務のあと一直線に声優の道に入ったのではないのですね。

そうなんです。アシスタントプロデューサーって名前はいいんですけれども、大した仕事はできないのですよ。ありとあらゆる雑用係をやり、それはそれで楽しかったですし、今でも繋がっている出会いがたくさんあったりしますが。

ディレクターさんから、「原さん(本名)、その仮ナレ(本番前テストとしてのナレーション)を読んでくれないかな」と言われて、手伝ったりして、「私やっぱり声の仕事がしたいんだよね」って。そこでまた引き戻されるわけですよ。そうだ、声の仕事をするんだって。そこで制作会社のスタッフに紹介してもらった青二プロダクションのマネージャーと話をしました。そうしたら、「もう遅い」って言われてしまったんです。

その時24歳でしたが、いまから声優を目指すのは遅いと言われて。というのも、声優は中学生ぐらいからやりたい人がいて、高校卒業前から養成の講習に通ったりするような世界なんです。私も「そうなんだ。遅いんだ。どうしようかな」と、一瞬ぐらっときたんですよ。でも続けてマネージャーから、「でも、青二塾(あおにじゅく)*に入って首席で卒業したらなんとかなるかな」って言われたんです。それでピンときました。「しめた。声優になれる可能性が出てきたぞ」って。「1年後に首席で卒業すればいいのね」って思いました。* 青二塾:1982年に開校された声優事務所青二プロダクションの附属俳優養成所。一龍斎貞弥さんもナレーションの授業の講師を務めている。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

――首席で卒業すればいい、ということに反応できる自信がおありだった。

いやいや、自信があったとかそういう話ではなくて、「首席取れば可能性あるんだ」って。だって遅いって言われた時に気持ちがぐらっときていますから。その直後に、首席で卒業すれば入れる可能性が出てきたわけで。希望に振り子が振れた瞬間ですよ。これは神の啓示かと思うくらい、本当に大きなことでした。

強いて言えば、大学時代に4年間放送研究会にいたことが大きいかもしれないです。全く何も経験がなくてその言葉を聞いたら、「首席か。自信ないな」って諦めていたかもしれないですけれど。4年間、放送研究会でしっかりみっちり発声とか読みとか練習していたんですから。

青二塾の卒業式では卒業生代表として答辞を読み、卒業公演では主役をやらせていただきました。別に「首席」と貼り出されるわけじゃないんですよ。1年間本当に集中して頑張ってそれなりの成績を納めることはできたかなと思います。オーディションも通って、1990年から青二プロダクションの所属となりました。

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――声優事務所の所属となり、ばりばりと声の仕事を始められた。

いえ。卒業して最初から忙しかったわけではなくて、少しずつ仕事が増えていき、事務所の準所属、正所属と段階を踏んでいきました。声が関わる仕事は何でもやったと自負しています。特にナレーションに関しては読んで読んで読みまくりました。

新作講談がきっかけで観光大使としても活動

――そして本インタビューの前編で伺ったように、声のプロとして第一線で働かれていた時に講談と出合い、2007年に一龍斎貞花(いちりゅうさい・ていか)師匠に弟子入りされ、講談師としての芸を磨いていった。

振り返ると私って何やるのも遅いんです。声の仕事がやりたいと声優事務所に相談した時も遅いと言われ、講談に入ったのも43歳。同期の若い人とは20歳くらい違いましたからね。行動は速いけれど気づくのが遅い。でもそれは楽しいと思うことを一生懸命追求してきた結果ですし、人生に無駄なことは1つもないと思っていますけれどね。

――いま2つの市の観光大使のお仕事もされていますね。

「常陸太田(ひたちおおた)大使」と「大分県臼♡(うすき)応援大使」ですね。これは私が手がけた創作講談「二孝女(にこうじょ)物語」がきっかけとなりました。臼杵(うすき)市野津町と茨城県常陸太田市を結ぶ江戸時代の、実際にあった美談をもとにした作品です。

臼杵の野津で暮らす姉妹が、旅の途中で行方不明となり7年間行方の分からなかった父親を迎えに、約2カ月かけてさまざまな危機を乗り越え、常陸太田の青蓮寺(しょうれんじ)まで長旅をして重病を患う父親と再会。無事に連れて帰るという、孝行娘と道中支えてくださったかたがたのお話です。野津から常陸太田までは1,200㎞ぐらい離れています。

姉妹の礼状など実在の書簡や、常陸太田で二孝女の父親の治療に当たった猿田玄碩(さるた・げんせき)という医師の書き記した書籍「豊後国川登(ぶんごのくにかわのぼり)二孝女物語」などが「豊後国二孝女関係資料」としてまとめられています。それらの資料をもとに現代語訳して、「実話 病父を尋ねて三百里―豊後国の二孝女物語」(橋本留美著、新日本文芸協会、2010年)という本も出版されています。これらの歴史資料や本を参考にさせていただき、新作講談をつくりました。

二孝女のお話を多くの方に知ってもらうことが、私の「大使」としての役目の1つだと思っています。新聞や雑誌などの取材では必ず二孝女の話をさせてもらいますし、臼杵市内では小・中学校を訪問して、「昔地元にこんなすごい姉妹がいたんだよ」と話もします。ここ数年は新型コロナの影響もあり、代表の生徒さんに直接聴いてもらい、各校にリモートでつないで聴いてもらう試みもしています。今では大分県と茨城県両方の道徳の教科書に二孝女の物語が掲載されているんですよ。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん右手に張扇(はりおうぎ)、左手に扇子

大分の景観、歴史的な遺跡、そして温泉

――ここで、大分の魅力について教えてください。どんなところにお友達を案内したいですか。

まずは実家である普現寺の緑豊かな境内ですね。また、臼♡(うすき)大使としては、国宝の臼杵石仏(うすきせきぶつ)磨崖仏(まがいぶつ)の石仏群や野津町にある風連鍾乳洞(ふうれんしょうにゅうどう)を推したい。久住(くじゅう)では大分の山々や高原の圧倒的な自然を味わえますよ。

それから温泉。野津に戻ると、温泉に1回は行きます。久住や竹田(たけた)、別府。由布院までは距離があり毎年ってわけにはいかないですけどいい温泉地です。

――普段お酒を飲まれますか。

はい。お酒を飲む機会は多いです。コロナの影響もありできなかった時期もありましたが、大体講談も落語も会があると、会の主催者や先輩がご馳走してくれる打ち上げの席があります。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

この間、大分県の玖珠(くす)町出身の三遊亭鳳志(さんゆうてい・ほうし)師匠が声をかけてくださった会で、お客さんが持っていらした「いいちこフラスコボトル」を初めて飲む機会がありました。最初はロック、その後は水で割ってもらいましたけれどとても美味しくて。空いたフラスコボトルは私がもらい家に持ち帰り、花瓶にしています。あのガラス瓶はすっごい映えるんですよ。

あとは、そうですね、臼杵には日本酒の醸造元が4つほどあり、そのお酒を地元臼杵の皆さんで飲む会がありました。江戸時代に途絶えた幻の臼杵焼きを現代に復活させたお猪口と一緒にお酒を自宅に送っていただき、私は東京からリモートでパソコンを前にお酒をいただくという、美味しくて楽しい思い出があります。

前編はこちら

一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)

PROFILE

一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)

1964年、大分県大野郡野津(のつ)町(現:臼杵市野津町)出身。1986年、日本女子大学卒業後、外資系ホテル会社、テレビ番組制作会社勤務を経て、1990年、声優所属会社青二プロダクションに所属し、ナレーター・声優として活動。2007年10月、講談師 一龍斎貞花(いちりゅうさい・ていか)に入門。2011年10月二ツ目、2022年9月真打ち昇進。古典を中心に、故郷の史実を講談化した「二孝女物語」や、明治大学の傑物「島岡吉郎物語」シリーズ三部作など新作講談も手掛けて再演を重ねている。声の仕事の変わり種では給湯器やカーナビ、航空会社予約センターの音声案内、ドラマ日曜劇場「マイファミリー」(2022年、TBS系)内の脅迫電話の機械的な声なども担当した。2016年から常陸太田大使、2018年から大分県臼♡(うすき)応援大使に就任。2012年より台湾各地で公演し日台文化交流・親善に努め、2021年に日本台湾交流協会表彰を受ける。