講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

大分ゆかりのあの人 第12回【前編】講談の耳から入ってくる日本語の音の美しさ、心地よさに惹かれました

講談師、ナレーター・声優一龍斎 貞弥

ナレーター、声優として第一線で活躍していた時期に、講談師の一龍斎貞花(いちりゅうさい・ていか)師匠に弟子入りして、前座から修業を始めたのが2007年のこと。入門3年7カ月で二ツ目昇進、15年目の2022年に真打ち(しんうち)に昇進された一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん。大分県臼杵市の伝統のある寺に生まれ育ち、大学進学を機に上京、就職・退社、声優養成所通い、声のプロとして活動、さらに子育てもしながら、演芸の世界での苦労の日々。大病を克服してつかんだ真打ち。波乱万丈という言葉があてはまる貞弥さんに、講談師、声のプロというお仕事の魅力を語っていただきました。 後編はこちら 写真:三井公一

自分に付加価値を付けられる、そんな学びの場はないか

――講談師、ナレーター、声優と多彩に活躍されていらっしゃいます。お仕事の力の配分はどのようにされているのですか。

今は講談師の仕事が多いですね。私のスケジュールは全部自分自身があずかっています。ナレーションや声優の仕事は直前にならないと、なかなか決まらなかったりするので、先に講談のお仕事が決まっちゃうことも多かったりします。

――講談師の一龍斎貞花師匠に弟子入りされたのは2007年のこと。その当時、貞弥さんは既にキャリア約15年の声優・原亜弥(はら・あや)さんとして、第一線で活躍されていらっしゃいました。そこを講談師への道に入られたきっかけは何だったのでしょうか。

講談師の道を選んだときの説明はちょっと長くなります。1990年に声優事務所の青二プロダクションに所属して、本当に無我夢中でいろんな声の仕事をさせていただいて10余年を経た頃。40歳手前になった時に、ある程度先が見えたかなって思ったんです。

収録現場に行って原稿を初見で読むこともありましたが、慌てず対応できる。プロであれば皆さんできることですが、そんなことがちょっと物足りなくなってきたということもありました。この先キャリアを積んでいく中で、ナレーターとしてもっといけるだろうと思ういっぽうで頭打ち感も感じていました。さらに、年齢を重ねていく時に、先輩たちを参考に見ていると、女性は40歳を超えると仕事が入りにくくなっているなっていうのも見えてしまった。

また、その当時いただいていた仕事のジャンルが、ナレーションと「機械音声」というジャンルに偏っていたんです。「機械音声」というのは例えば留守電や、カーナビ、給湯器の音声の吹き込みです。「お風呂が沸きました♪」とかね。そういう、技術が必要で、収録にとにかく時間がかかる声の仕事を多くいただいていました。まるで自分が本当に読む機械になったみたい、という感じでした。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

本当はもっと声の芝居がやりたかったんです。アニメや外国映画の声優など、もっと人間的な感情を出すような仕事もしたいのに、なかなかそういう仕事がこない。待ってるだけじゃしょうがない、ならば自分からやってみようと思い、いろいろ演劇のワークショップとかに参加して学んでいました。

自分がこれからもっと上を目指していく上で、表現の幅を広げられるヒントがもらえる、自分に付加価値を付けられる、そんな学びの場はないか模索している時に、所属している芸団協(公益社団法人 日本芸能実演家団体協議会)が主催する伝統芸能のセミナーの案内を見つけました。

――いくつかあるセミナーの中に講談があったんですね。それまでに講談を聴く機会はありましたか。

例えば東京・新宿の末廣亭(すえひろてい)などの寄席の演目の1つとして聴いたことはありましたが、講談だけの「講談会」に行ったことはありませんでした。伝統芸能のセミナーの初回の講義は琵琶だったかな。それから、常磐津(ときわず)、清元(きよもと)、狂言、日本舞踊などいろいろありました。仕事がない時には片っ端から受講して、その中の1つが講談だったんです。

――講談に出合った時は、「あ、これだ!」という感じだったのでしょうか。

そう思ったような、そこまでは思わなかったような。講談を受講したのは、自分がやっている声の方の表現に活かせるかもしれないと思ったことも理由の1つです。読む仕事を15年ぐらいやってきている中で、講談って同じように読む芸ですし、いうなれば400年前から続くナレーションの原型みたいなものですよね。読むことのルーツを感じたということもあります。

その講談のセミナーの先生が後に私の師匠になる一龍斎貞花で、デモンストレーションとして、修羅場(しゅらば)読み*1で「三方ヶ原(みかたがはら)軍記*2」を実演してくださいました。修羅場というのは戦いの山場のことです。戦いの場面を見てきたように臨場感を持って読むのがこの修羅場読みです。ものすごい迫力でした。同時に、流れるような日本語のリズムの心地よさ、音の響きと広がりも感じました。*1 修羅場読み:修羅場は「しゅらば」のほかに、「しらば」「ひらば」といった読み方をされることもある。
*2 三方ヶ原軍記: 1572(元亀3)年、遠州三方ヶ原(現在の静岡県浜松市付近)で起きた武田信玄と徳川家康との戦い「三方ヶ原の戦い」をもとにした講談の演目。

師匠が実演した後で実際に受講生に読ませるわけですよ。まあ受講生みんな書かれたとおりには読めますよね、日本語ですから。でも師匠が読んでくださったような修羅場読みのリズムでは読めませんでした。ナレーションの仕事では渡された原稿は大体なんだって読めるのに。修羅場読みで読めと言われて、どう読んでいいか全く分からない。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

「あ! これ読んでみたい」と強く思いました。すぐにはできないことをやりたいと思っていたので、「できないことが出てきたぞ」、「自分で思うように読めたらなんて素敵だろう」って。

講談のセミナーは3回あって、最初の師匠の実演は修羅場読みでしたけれど、その後にいろんな短い一席をやってくれました。例えば「山内一豊(やまのうち・かずとよ)の妻」。素の文をいわゆるナレーターとして読みながら、山内一豊は一豊としてやり、妻のお千代さんはお千代さんでやり、織田信長が出てきたら信長でやりと、いろんな登場人物を1人で雰囲気を変えながら読むわけですよ。全部1人で。

「うわあ、これは面白そうだな」と思いました。あとあと思うのですけれど、講談というのは高座で演じるひとり芝居なんですよね。この世界を掘り下げてみたい、自分でもやってみたい。もし続けていったら、5年後か10年後か分からないけれども、自分が納得できるような読みをできようになるかもしれない。今の自分にはできない表現ができているはずだと感じました。

右手が叩いて音を出す張扇(はりおうぎ)で講談師自作。左手の扇子は箸や刀に見立てて使われることもある右手が叩いて音を出す張扇(はりおうぎ)で講談師自作。左手の扇子は箸や刀に見立てて使われることもある

自分の思い描く未来がすごく広がった感じがしました

――挑戦すべき目標に出合えたのですね。

講談に出合い、自分の思い描く未来がすごく広がった感じがして、これはやらない手はない、やらない方がもったいないと思いました。

師匠が、「誰か読んでもらえますか」って言った時に、「はい」って手をあげて読んだんですよ。そしたら、師匠が、「読み慣れていますね」って褒めてくれたんです。それは私、読み慣れてますよ。もう10何年それを生業(なりわい)にしてきていますからね。セミナー後に私は師匠に質問をして、それに丁寧に答えてくださった。その時、師匠から「今度私の会があるんだけど、よかったらゲストで出てみますか」って声をかけていただいたんです。

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――声優やナレーターという「声のプロ」としてのゲスト出演ですか。

そうです。ナレーターの原亜弥として出るかというオファーでした。私は来るもの拒まず、やれることはやってみようというタイプなので、「やりたいです」って即答して。「じゃあ、今度稽古に来てください」と言われ、そこで高座でやる演目の稽古をつけていただくことになって。それがきっかけで、毎月1回くらい師匠のところに稽古に通うようになったんです。

何カ月後かの師匠の会でナレーターとしてゲスト出演させていただきました。その後、師匠に弟子入りするまで3年くらい、何度か前座さんの後に出していただきました。入門してからは前座ですから、ゲスト時代に先に出ていた前座さんよりも前に上がるようになったわけです。立場が逆転しちゃった(笑)。

――初めて貞花師匠に出会ってから3年後に入門されたのですね。3年待ったのはなぜですか。

その当時、声の仕事が忙しかったというのもありますし、前座修業って大変なんですよ。住み込みの内弟子ではなく通いですけれど。修業期間には、もちろんネタの稽古もありますが、師匠の鞄持ちのほかに、講談協会が毎月開催する定席(じょうせき)をはじめとする楽屋仕事とか、裏方の仕事もたくさんあって。自分の師匠だけでなく、講談や落語の師匠の方々からもいろんな仕事を頼まれる。

それはとても片手間ではできないことなので、前座修業を活動の1番に優先しようと決めました。そのため声の仕事の方をセーブしなきゃいけないので、準備時間が必要でした。もう1つ大きかったのは、娘がまだ小さかったことですね。当時、小学3年生でしたので、高学年になるまでは前座修業をするのは無理かなと判断して、入門まで3年かかりました。

がんとの闘病時期に真打ち昇進の知らせを受ける

――そうしていよいよ講談の世界で歩み始められました。

それでも声の仕事が入る時もありますし、前座の仕事が昼夜で入ることもある。前座修業のお勤めのほかに、家族のご飯を用意して家事と子育て、合間を縫ってナレーションの仕事と、3本立てでもうくたくたでした。

そもそも、講談だけじゃなく落語を含めた演芸の世界は、今までやってきたものと全く違う世界観、人間関係の中で、キャリアも年齢も全く関係ない、ゼロからのスタートでしたから。それまでの自分の中での常識とかが通じないですよね。

この世界独特の不文律とか、理不尽であれ、いろいろあるんです。上から言われたことは絶対とかね。最初の3カ月間は前座見習いでしたが、毎日がガンガンガンってハンマーで頭を打たれているような感じ。家の中も外も忙し過ぎて、夜枕に頭をつけると、グアングアン目が回っていました。多分ストレスでそうなっていたと思います。

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この期間は人間修業の期間なんだと思って「論語」を読んでいました。もう何千年前の孔子の時代も同じことを人間は繰り返してるんだと思って、「論語」を読みながら、人間の普遍的な心理とかね、そういうものを追求していましたよ。

前座を入門から3年7カ月で終えて二ツ目に昇進することができました。これは短い方なんです。タイミングが良かった。その代わり真打ちになるのはちょっと遅かったと思いますけど、これもタイミングです。病気もありましたし、15年かかりました。

――真打ち昇進の知らせを聞いたのは、2021年春のことですね。その時はがん(悪性リンパ腫)との闘病の時期と重なりますか。

そうです。2020年暮れに入院、手術、2021年1月に退院して、自宅で3回目の抗がん剤投与をして治療をしている時でした。師匠からLINEで連絡をいただきました。すぐに折り返しのお電話をしたら、「真打ちが決まったよ。真打ち披露は2022年の春あたりはどうだろう」と言われました。

そう言われたものの、まだ抗がん剤治療は6クール中3クールしかやっていないし、その後も病状がどうなるか分からない。実のところまだうんうん唸ってるところで、よくなっているわけでもなかった。1年後の真打ち披露は難しいと思ったので、「すみません。ちょっと自信がないので。半年伸ばして1年半後の2022年秋にしたいです。秋までになんとか復帰します」と答えて、OKをいただきました。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

――まだがん治療のただ中だったのですね。それでも知らせを聞いた時の率直なお気持ちはどんなものでしたか。

私の年季で言うと、昇進の予想はつけられるので、そろそろなんだろうなとは思っていました。「今来ても困るな」っていうのが正直なところだったんです。病気と治療の副作用で体力も体重も落ちてしまった時で。闘病中にネタの稽古なんてとてもやる気が起きませんし。まず体を立て直していくのが大変だなって。

だから「すごいうれしい。やったー」みたいな感じじゃなかったです。闘病中はとにかく喋っていないんです。入院中はずっと太い管が腸まで入ってましたから、もう痛くて痛くて喋れないんですよ。だから管を外した時の舌の衰えには「あれ?」と思いましたね。喋ってる時の音と、喋らない期間を経た時の音というのは自分の声ながら、よく分かるんですよ。「あちゃー」って感じでした。

――約9カ月間にわたる闘病生活とリハビリを経て、病気を克服され、真打ち昇進披露の行事が始まったのが2022年秋からですね。

2022年9月から真打ち披露が始まりました。皮切りは東京會舘での披露パーティー。その準備も大変でした。まだ新型コロナウイルス禍が完全に明けていない中、招待状を出してどれだけお客様が来てくださるのか分からない。パーティーの形式はどんなふうにできるのか、アクリル板は外せるのかとか、本当に手探り状態での開催でした。

実は、私のすぐ前の先輩とその前の先輩はコロナの影響で真打ちの披露宴も披露興行もできなかったんです。ですから開催できたことには、「ありがたい」しか出てこなかったですね。自分の運にも感謝しましたし、お運びいただいたお客様、師匠、おかみさん、関係各位、先生方も含め、準備からお手伝いくださった後輩たちに、感謝でいっぱいで。披露パーティーで300人を超すお客様を前にした時は、胸がいっぱいでした。

2022年12月には大分県臼杵市の野津中央公民館、2023年5月には大分市内のコンパルホールで真打ち披露公演を開きました。両方とも本当にたくさんの方がいらしてくれて、主催者や後援会の方たちに本当によくしていただいて、大変ありがたかったです。感謝の気持ちしかありません。

講談師、ナレーター・声優の一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さん

一龍斎貞弥さんの「講談入門」

――講談の初心者に楽しみの基本を教えてください。

講談の面白さは豊富な物語世界に浸ることです。耳で聴く芝居や映画、ドラマだと思ってシンプルに物語を楽しんでいただくのがよいと思います。主役、脇役、豪傑から無名の偉人、大悪党に至るまで、老若男女が繰り広げる人間模様は「生き方の見本市」として大いに参考になること間違いなしです。

また、日本のみならず古今東西のお話がたくさんありますから、歴史をひもとき、興味の幅を広げて、教養や知識を得ることもできます。もっとも、「講釈師、見てきたような嘘を言い」。講談には物語を面白おかしくするための脚色、史実と嘘を織り混ぜている部分もありますので、あくまでエンターテインメントとして楽しみ、気になったらそこからいろいろと調べてみてください。

また、同じ演目でも、一門や演者によって話の持っていき方、設定や内容、声、口調、印象もだいぶ変わりますから、そんな違いにも注目していただけたら“通”への一歩になりますね。

講談は、軍記物から始まり、武芸物、政談(お裁き)物、仇討(あだう)ち物、お家騒動物、世話物(怪談物含む)など多岐にわたりますが、日本人が古来大切にしてきた義理と人情が息づく世界です。今は廃れつつある日本人の美学、価値観、道理や道徳観が講談の中には生きています。講談を聴くことで、ひとときでもそんな世界観を感じ、思い出し、いい心持ちになっていただけたならとてもうれしいことです。

一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)さんの扇子

――講談はどこで聴けばいいのでしょうか。

まずは「寄席」や「講談会」です。例えば私の所属する「講談協会」では、毎月常設の寄席である「定席」を行っており、前座から真打ちまで講談師が連日出演しています。定席以外では、各講談師が東京大阪のほか地方でもさまざまな会場で開かれる寄席や講談会に出演しています。

講談師は、現在全国で約100人が活動しており、各自が団体に所属しています。各団体のホームページでは講談師の活動や、講談会などの最新スケジュールの案内がありますので、ぜひのぞいてみてください。

東京では「講談協会」、「日本講談協会」、大阪では、「なみはや講談協会」、「大阪講談協会」、「上方講談協会」があります。また、5代目 旭堂小南陵(きょくどう・こなんりょう)先生が数年前にDIYで造った講釈場「此花 千鳥亭(このはなちどりてい)」では年間を通して講談を聴けます。

後編へ続く

一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)

PROFILE

一龍斎貞弥(いちりゅうさい・ていや)

1964年、大分県大野郡野津(のつ)町(現:臼杵市野津町)出身。1986年、日本女子大学卒業後、外資系ホテル会社、テレビ番組制作会社勤務を経て、1990年、声優所属会社青二プロダクションに所属し、ナレーター・声優として活動。2007年10月、講談師 一龍斎貞花(いちりゅうさい・ていか)に入門。2011年10月二ツ目、2022年9月真打ち昇進。古典を中心に、故郷の史実を講談化した「二孝女物語」や、明治大学の傑物「島岡吉郎物語」シリーズ三部作など新作講談も手掛けて再演を重ねている。声の仕事の変わり種では給湯器やカーナビ、航空会社予約センターの音声案内、ドラマ日曜劇場「マイファミリー」(2022年、TBS系)内の脅迫電話の機械的な声なども担当した。2016年から常陸太田大使、2018年から大分県臼♡(うすき)応援大使に就任。2012年より台湾各地で公演し日台文化交流・親善に努め、2021年に日本台湾交流協会表彰を受ける。