モデル・俳優青柳 文子
――青柳さんは大分県別府市出身と伺いました。
別府に住んだのは5歳くらいからですね。東京で生まれて育って、5歳で引っ越しました。
――どんな子ども時代を過ごされていましたか。
すごく真面目で“完全無欠赤ちゃん”と言われてました(笑)。
――完全無欠……!? どんな赤ちゃんだったんでしょう。
無口で、勝手に好きなことをして全然手のかからない子どもだったんです。あとよく本を読んでました。学校の図書室の本を全部読みたいぐらい、外で走り回るよりも、1人で黙々と本を読んで、お絵描きをするのが好きでした。
――別府はどんなところですか。
大分県の中でも一番文化が濃い街だと思います。観光都市として栄えた歴史があり、古いものが古いまま残っていて、変に発展しすぎない、温泉街の良さが残っている感じ。昔からある温泉地だから、誰でもどうぞといった、おもてなしの心があって、風通しがいい場所ですね。みんなあったかくて、地面もあったかいし、なんか楽ちんで緩い空気。帰ると気持ちが緩みますね。今は移住者や学生たちによって新しい風が送り込まれて、独特のカルチャーも生まれています。
――青柳さんが別府の高校生だった時代は何をして遊んでいたんですか。
ホテルがすごくたくさんあるから、ホテルでよく遊んでました。プールもあるし、ゲームセンターもあるし、温泉もあるしみたいな感じで、何でもそろっている絶好の遊び場でしたね。今思えば高校生がホテルのロビーを溜まり場にしててよかったのかな(笑)。
――それは独特の文化ですね。
普通に制服で遊びに行ってましたが、出て行けみたいな雰囲気もなく。家族で週末ホテルへ食事に行って、日帰り温泉に入って帰る、みたいなのをよくやってましたね。
――今でも時々帰っていらっしゃるそうですが、別府に帰ったら必ず行く場所とか、必ず食べるものはありますか。
海鮮をたくさん食べますね。大分は海鮮が美味しいってことも、全国的にはあまり知られてない気がします。温泉はあらゆる所へ行きますし、由布院も行きます。由布岳の方から塚原高原あたり、草原がすごくきれいなんですよね。海も行きます。高校生の頃、学校帰りに海に行ってみんなでぼーっとするのが好きでした。海も山も温泉もあって、本当にいいところです。
――青柳さんは14歳から15歳の中学の1年間、北海道に住んでいたそうですが、なぜ北海道に行こうと思ったのですか。
当時、学校で納得いかない出来事がたくさんあったんですよね。学校って何のために行くんだろう? 教育ってなに? みたいになっちゃってて。そんな中、同じように感じて仲良くしていた先輩が自主的に転校してしまったんです。それで中学校ってそんなふうに選んだりできるんだって知って、探し始めたんです。
本当は海外に留学したかったんですが、やっぱりいろいろ難しくて、その中で見つけたのが、北海道の農村留学だったんです。プログラムを見ると乗馬やスキーもできるって書いてあって。乗馬はもともと好きだったし、スキーもやってみたかった。あとドラマの「北の国から」も好きだったし、「大草原の小さな家」という海外ドラマみたいな自然に近い暮らしの世界観にも憧れがありました。
――親御さんに反対されなかったのでしょうか。
最初はびっくりしていましたが、私が自分からプレゼンしたんですよ。母に資料を見せて、こういう生活ができるって。母も私が学校を嫌がっていたことを知っていたし、じゃあ一回一緒に見に行って決めようということになりました。それで母と2人で北海道へ行って、そしたら環境も雰囲気もすごくいいじゃん! すぐ行こうってなって、行きました。
――実際の北海道での生活はどうだったんでしょうか。
思っていた以上に厳しい生活だったので、最初の1週間はすごく泣いたんですよ。それまで親と離れたこともなかったし、どこか甘ったれた感情だったんでしょうね。ホームステイ先は農村留学を受け入れている、寄宿舎のようなご家庭でした。何ヘクタールもの広い土地があって、そこに馬などの家畜がいて、早朝に起きて世話をしてという……。正直そんなに労働があるとも思っていなかったんですよ。でも腹をくくって、その泣き暮らした1週間のうちに「やり抜いてやろう」「1年間は修行をしよう」って決意して。
でも後になって行って良かったと思えるようにもなりました。全国からいろんな子どもたちが集まっていて、学年も関係なく、ひとつの大きな家庭の中で集団生活をしていると、本当にいろんなことが起こるんですよ。いわゆる不良っぽい子もいるし、不登校の子もいる。いろんな人がいるんだなっていうのを、学校以外のところで初めて学びました。
普通の学校だと仲良しグループでまとまってしまい、それ以外の人たちとそんなに深く関わらないじゃないですか。でも家の中で毎日顔を突き合わせて、どうしても何かができない子がいたり、私とは何もかもが違う子もいる、育ってきたバックボーンも違う。そんな子たちが全国から集まってきていたので、勉強になりましたね。
――それはすごい経験をされましたね。思春期のその時期にはとても大きな出来事じゃないでしょうか。
確かにその時は全然気づかなかったし、意識してなかったけど、今思うとそうですね。私の価値観の根底にはその経験の影響があると思います。
――北海道から戻って別府の高校へ行き、高校を卒業してから東京へ出たということですが、今の仕事を選んだきっかけ、経緯はどういうものだったんですか。
まず東京に出てきてすぐの頃に、ファッション雑誌のストリートスナップ企画で、コーディネートを撮らせてくださいって声をかけられて。今はSNSとかネット経由で声をかけるのが普通かもしれませんが、その頃は本当に街中にモデルやタレントのスカウトがたくさんいました。表参道を歩いていたら写真を撮られて、それが雑誌に載って。そのうち編集者の方が呼んでくれて、なんとなくモデルの仕事を始めていった感じです。
――ストリートスナップ、はやっていましたよね。ちなみにどんな雑誌の撮影が多かったんでしょうか。
「CUTiE(キューティ)」(宝島社)とか「Zipper(ジッパー)」(祥伝社)ですね。他にもカジュアル系からロリータ系まで、いろいろとやっていました。雑誌全般がすごく元気だった時代ですね。今から15年ほど前、2008~2010年の間くらいかな。読者モデルブームの始まりだったのもあって、ありとあらゆる雑誌に載ってたんです。
――カリスマモデルとして人気を博し、そのうち女優としても活躍されるようになりました。
最初はモデルもアルバイト感覚でだらだらとやっていたんですが、だんだん声をかけていただくことが多くなって、とても忙しくなったんです。じっくり考える暇もなく、とにかく現場で出せるものは全部出して、みたいな感じで、訳の分からないまま毎日撮影に行って帰ってという日々でした。今思えば本当にありがたいことなんですけど。
当時はインターネットとかSNSでの交流もあんまりなかったから、ファンがいるってことにも気づかなくて。24歳くらいの時に初めてスタイルブック(「青柳文子の本」学研プラス)を出して、書店イベントをやったんですよ。そうしたら300~400人くらいの列ができて、びっくりしちゃって。ファンの人と直接話すのも初めてだったんですが、こんなに熱量を持って求めてくれる人がいるんだと思ったら、すごく背筋が伸びました。ちゃんとしなきゃって。遅すぎるんですけど。それから見てくれる人のことも意識して仕事をするようになって、もっと上を目指さないといけないんだなと、新しいことにチャレンジし始めた感じです。お芝居の仕事を始めたのもその頃からですね。
――モデル、女優としてキャリアを積みながら、20代後半でご結婚、出産されて、ライフステージに変化があったと思うんですけど、自分の意識とか行動が変わったな、と思うターニングポイントはありましたか。
やっぱり妊娠してできないことがすごく増えたあたりですね。それまでは自由に出かけてお酒を飲んだりしてたのにできない、それこそ大好きな乗馬もできないって気づいて。できないできないが続くと、やりたいことがたくさん出てきて。でも妊娠中に考える時間がすごく増えたので、いろいろな考えが発酵された感じもあります。
で、産後は社会に対して思うことが増えました。妊娠出産をしたというだけでいきなり社会のマイノリティになるんだなっていうのが分かって、女性であることを意識せざるを得ないというか。男性と同様には人生を歩んでいけないじゃないですか。女性が出産したいってなると身体的なリミットがありますし。
――そうですね。そのせいでキャリアを手放す方もいらっしゃいます。
だから手放さないといけないのかなってすごく考えて、でも産んで育てていくうちに、自分は別に手放すわけじゃないんだなっていうのは分かったりもして。そういう経験を経て、考え方が変わりましたね。分かることが増えました。
男女平等について騒がれているのが、以前はピンときていなかったんです。なんでわざわざ言わなきゃいけないの? って。でも当事者として、その立場に立ってみると、不平等を感じることが増えて、ああそういうことだったのかって分かるようになりました。
子育てのことについても、私は最初都内でも若者が多いエリアに住んでいて、子どものために用意された場所が少なく、不便に感じていました。そこから子育てしやすい環境って何だろうと模索し始め、自ずとどんどん視野が広がっていった感じです。
そんな中で2019年にドイツやスイスを旅した時に、パパでも夕方になる前には仕事を終え、公園で家族と待ち合わせをして子どもと遊んでから帰宅する人が多いと聞いたり、ベビーカーを押して電車に乗る時は必ず誰かが助けてくれたり、知らない人でも子どものことを気にかけてくれる、今まで見たことがない光景をたくさん目にしました。男女格差の面でも、子育てのしやすさでも国によってこんなに違うんだ、というのを知って。じゃあ、日本でももうちょっとできることあるだろう、と思うようになりました。
――ドイツは特に環境先進国でもありますよね。SDGsも当たり前のように浸透していると聞きます。
そうですね。国として法制度が整っていたりするので、制度がそうだからやっているのか、国民一人ひとりの意識が高いからなのか、どっちが最初かは分からないですけど、うらやましく思いました。
――青柳さんは著書やSNSで思ったこと、感じたことをストレートに発信されているな、という印象を受けるのですが、読者やファンの方からはどんな反応があるんですか。
最初はびっくりされましたね。影響力のある人がそんなことを言っていいんですか、みたいな。特にSNSを始めたばかりの頃はちょっと言葉が尖っていたこともあって、反発もありました。でも「言ってくれてありがとうございます」っていうコメントが大半でした。
私だけが思っていたわけじゃなくて、みんなもそう思っていたんだなっていうのは、ものすごく感じました。だからこそ、思ってるだけじゃダメじゃん、変えたいなら声に出して言っていかなきゃいけないでしょっていうのを感じて、全部言うようになったんです。
あとは、今までみたいに、ファッションとかメイクとか、そういう発信を求めてたはずのファンの方々も、一緒に歳を重ねて関心ごとが社会的なことや、よりリアルなところに拡がっているのも感じました。私ももうファンシーなことをやってるだけじゃなくてもいいんだなと。
――SNSで読者やフォロワーと交流を持てたことで、自分のやるべきことが見えてきたんですね。
そうですね。本当に皆さんありきだと思います。
――ちょっと話は変わるんですけど、青柳さんの著書やSNSを拝見すると独自の家族観をお持ちだなと思いました。青柳さんにとって家族の在り方、関係性において理想とする形はありますか。
この本(「あか」三栄書房)の後半、私が尊敬するお母さんたちにインタビューして、そこで教えてもらったことでもありますが、家族って人生のある時、一定期間一緒に過ごす仲間みたいな感じだと思っていてもいいんだなと。結婚だって一生続けなきゃいけないってみんな思っていますが、そういうことでもないと思っています。
子育てでパートナーが必要な時はパートナーと一緒にいて、18歳くらいで子育てって一旦は終わるじゃないですか。そこで一旦解散して、それぞれ好きなことをして、また必要になったら一緒にいる。そういうフレキシブルなものでいいのかなと思います。
それに、家族って血縁や戸籍によるものだけじゃなくてもいい。それだけに縛られていたら、孤独な人ばかりになってしまうというか。だから、家族並みの心のつながりを誰かと築けていたら、それに準じて臨機応変に一緒に過ごしていくのが理想的かもしれないですね。
それが例えば、結婚していない異性、同性のパートナー同士でもいいし、もっと言えば仲が良い友達同士でもいいと思うんですよね。孤独な子育てをしている親同士で、お互い寄り合って一定期間家族みたいな感じで過ごすのもいい。昔の長屋暮らしみたいな感じですね。すでに子育てを終えたけどまだ元気が有り余ってるシニア世代とか、逆にまだ子どもを持つ自信が持てない若い世代が練習のような感じで子育てに参加したりするのも、いいなって思うんですよね。
――最後に今後やりたいこと、夢を教えてください。
実は今年海外への移住を計画していて、移住先も決まっています。ですので、まずはそれを成功させること、移住後に生活を整えていくことが最優先なんですけど、新しい環境で今までとは違う価値観を仕入れたいですね。子どもたちも幼稚園から小学生と次のステップになるので、いろいろと変わってくると思うんです。そこで得られることと自分の感じ方に向き合いたいです。
今はターニングポイントの中にいる気がしていて、移住後の自分はまったく未知です。これまで自分が思い描いて、やってきたことには大体満足していますが、環境が変わると価値観ががらっと変わるかもしれません。暮らしも仕事も変化を楽しみたいです。
「あか」
著者:青柳文子
三栄書房
PROFILE
青柳文子(あおやぎ・ふみこ)
1987年12⽉24⽇生まれ。⼤分県出⾝。趣味・特技:旅⾏、⾳楽鑑賞、スキー、乗⾺
独創的な世界観とセンスで同世代⼥性から⽀持を集め、雑誌、映画、ドラマ、CMなどに出演。映画や旅⾏についてコラムを執筆、商品プロデュースなど様々な分野で才能を発揮している。2児の⺟。2021年に初のエッセイ本「あか」(三栄書房)を出版。
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