雅楽師東儀 秀樹
――東儀さんは著名な雅楽師でいらっしゃると同時に、雅楽と西洋音楽を融合させたパイオニアとしても知られています。独自の音楽スタイルを築く上で、意識していることはありますか。
僕のオリジナル音楽について「西のものと東のもの、古いものと新しいものをうまく結びつけた」と言われることが多いのですが、決して狙ったわけではないんです。僕は小さい頃から洋楽志向で、ロック、ジャズ、クラシックなどを聞いて楽しんでいました。音楽を特別に勉強したこともないし、現在、ピアノやギター、ドラムも演奏していますが、これらの楽器も習ったことがないんです。
だから雅楽を始めたときも新しい世界への好奇心で、すぐに受け入れることができました。僕の中では音楽のジャンルはすべて一律で、ハードロックと雅楽を分け隔てすることはありませんでした。作曲の理論を勉強したことがない分、かえって自由度も高く、気づいたらいろいろなものが融合していた、という感じでしょうか。
――東儀さんにとって、雅楽と西洋音楽の融合はごく自然なことだったのですね。ところで東儀さんが雅楽の道に進まれたのは高校卒業後だそうですね。
そうなんです。高校2年生の頃、「この子はどうやら普通のサラリーマンには向いていないな」ということを親も理解していて、「そこまで音楽に夢中なら雅楽に目を向けてみるのもいいんじゃないか」って言われたんです。東儀家は奈良時代から1300年続く楽家のひとつで、自分はそれを血筋として持っていることは知っていましたし、そういう価値観は大切だなとは思っていたのですが、まさか自分がやることになるとは思っていませんでした。
――それは驚きです。楽家として代々継いでいくことが当然なのかと思っていました。
高校までは家の中で雅楽の「が」の字も出てこなかったですね(笑)。ロックだジャズだって言ってる高校生に「雅楽はどう?」って言っても、反発するのが普通ですよね。でも僕は「それもそうだな」とすっと思えたんですよ。というのも、僕は父の仕事の関係で、幼少の頃、海外で暮らしていたんです。
海外に住んでいると自分が日本人であることが浮き彫りになるんですよね。日本人が日本の文化を背負える醍醐味や誇り、責任も若いなりに持っていました。雅楽をやるということは、自分の家にとっていいことだし、日本人としてもとても素晴らしいことじゃないかなと思えたんです。
それに、雅楽をやるからといって好きなロックをやめる必要はないと思っていました。好きなことは2つでも3つでも同時進行。その中でダメなものは自然と淘汰され、向いているものが残るだけですから。僕にとっては「雅楽が増えた」という感覚でした。
――東儀家に生まれたこと、海外に住んでいたこと、すべてつながって、雅楽師・東儀秀樹さんがあるのですね。
そうですね。僕が雅楽師として宮内庁に入った当時は、子どもの頃から雅楽ひと筋、という方しか周りにいなくて。「君は小さい頃からやっていない分、損をしている」という言われ方をされたこともありました。だけど、僕自身は小さい頃から「自分は音に対して普通じゃない感覚を持っている」という自覚があったので、不安はなかったですね。小学生の頃、教室にオルガンがあってね。前日に聞いたテレビの歌謡曲とか、譜面も何もないのにすぐに弾けちゃってたんですよ。ちゃんと左手で伴奏もつけて。だからすごくみんなから面白がられていました。
時が経ち、僕が篳篥を最初に稽古したのが、19歳の頃。吹いた瞬間、音階はすぐにできました。そして「これでビートルズの『Yesterday』を吹いたら素敵だなあ」とひらめいたので、家に帰ってすぐにピアノの伴奏をテープに録音して、それを流しながらメロディーを吹いて。まずは自分で遊んでいました。
――さまざまな西洋音楽に触れてきた上で雅楽を始められた東儀さんならではの発想ですね。
そうですね。雅楽以外の音楽をたっぷり知った上で雅楽に挑んだので、比べて見える雅楽の魅力や疑問点にも気づくことができました。その答えを自分で見つけるために、例えば源氏物語の講義を聞きに行ったり、昔の絵巻物を見て想像したり、古文書を読んで人に説明を求めたり。そうして得た知識をもって、改めて雅楽の古典に対峙すると、1000年、2000年前の人たちが構築したことに対する想像力が働いてくるんですよね。だから、雅楽を始めるのが遅くて、すごく得しました(笑)。
――篳篥を最初に吹いた瞬間からひらめきがあったとのことですが、現在の作曲活動やアレンジも同じようなスタイルですか?
はい。ピアノや五線譜の上で考えるのではなく、全部、頭の中で「聞こえている」んです。篳篥の旋律がこうで、ベースがこうきて、ドラムがこうきて、ピアノの伴奏はこうでという感じで。だから自分で演奏する分には譜面にする必要もなくて。
日常、さまざまなものを見聞きしている中で、「ああこの手があるか」「あの人の感覚を篳篥でやったらどうだろう」「このフレーズを笙(しょう)でやったら面白いな」といった具合に年がら年中感じているところはありますね。だから「出てこない」ってことは一切ないです。僕、締め切りを守らなかったことはないんですよ。
例えば「いいちこ」のCM依頼があったとしましょう(笑)。「『いいちこ』っていうと、クールで涼しげな感じの曲を作っちゃおうかな」みたいな発想で、最初のミーティングの時点で数曲持っていきますね。ものすごく仕事が早いんです(笑)。ミーティング中も話しながら曲ができちゃうんで、急いでメモしてますね。
――スランプ知らず……。さすがです。
スランプは一切ないですね。ただ作っている途中で、「この先は発展しないな」と思ったら、その作業から一回離れて全然違う曲を作ってみたり、音楽とは違う遊びをしてみたり。すると次の日にはスッとうまくいくということがままあります。ダメだと思ったらこねくり回さないことですね。無理やり感で出した結果は後から自分でも見たくないし、それを人に提供するのも不誠実ですしね。「本当にいいものができた」と言えるものを提供するべきだと思っています。
――なるほど。これぞプロフェッショナルな仕事の流儀ですね。
ところで、高校1年生のご長男・東儀典親さんも多数の楽器を操られ、2019年には雅楽の舞台でデビューも果たされました。典親さんも東儀さんのような神がかり的な能力をお持ちなんでしょうか。
いや、息子より僕の方が能力があります。って普通、親はそんなこと言わないですね(笑)。でも、今のところ、息子も「まだまだ全然かなわない。パパみたいになりたいからいつも観察してるんだ」って言っています。僕の方も息子の憧れの存在でずっといたいと思うから、とにかくいつも音楽を心の底から楽しんでいる姿を見せています。
彼は「パパは仕事をしているのにめちゃくちゃ楽しいんだ」というところしか見てないんですよ。もちろん、失敗も見せます。音楽に限らず、親の本当の姿を見せる。それが息子にとってよい教育になっているんだと思います。
初めて聞いたものを全部弾ける、なんていうのは僕が特殊なだけで、息子にはその能力はありませんが、15歳にしてはかなり音楽的です。本人もその自覚があるみたいで、これからが楽しみです。
――東儀さんが東儀家を継ぐと決められた年頃に息子さんもなられた訳ですが、そのようなお話はされていますか。
わざわざ話したことはありません。継ぐかもしれない、ぐらいの感じで。でもそれでいいと思っています。雅楽の長い歴史を考えると、息子が継ぐかどうかなんてことは、わずかな点にしかすぎないんですよね。1300年、雅楽を続けた東儀家がここで終わるのはもったいないと思いますが、例えば息子に他にやりたいことがあるのに、「この家に生まれたから雅楽やらなきゃ」と一生を終えるようなことはさせてはいけないと思っています。
たとえ他の職業に就いたとしても雅楽の価値観さえ持っていてくれればいい。伝えるべきは雅楽の「スピリッツ」です。そうして、雅楽のスピリッツが継承されていく中で、例えば10代先に雅楽師が現れれば、それでいいと思っています。
――本当に仲の良い、理想の父子ですね。典親さんが生まれたことで、東儀さんご自身の価値観に何か影響はありましたか。
とても大きな影響がありました。僕は26歳でガンになったのですが、強がりではなく本当に何にも怖くなかったんですよ。「ああ、僕は26歳で死ぬんだな。死ぬ瞬間まで精一杯生き抜いてやるぞ」って。全力で生きてきたので本当に悔いがなくて。大きな交通事故に遭ったときもそうでした。
ところが楽しんで生きていたら「ワクワク細胞」が活性化しちゃって(笑)。気づいたら元気になっていたんですけどね。ま、とにかく「いつ死んでもいい」と公言していた僕が、息子が生まれてからは、「絶対に死ぬもんか」に変わりました。
僕、息子が生まれてからは、本当に息子にかかりっきりなんですよ。夜泣きもおむつ替えも「もうこの瞬間は2度とない」と思うとすべてが愛おしくて。だからどんなに忙しくても「ねえパパ」って話しかけてきたら、すべての手を止めて必ず息子の話を聞きます。「後でね」なんて言っていると、子どもにとっての一番熱い瞬間を逃してしまいますから。
いつでも100%自分の話を聞いてくれる人がそばにいると、嫌なことなんて一切なくなるんですよ。テストの点が悪かったことも、友達とケンカしたことも、目を輝かせて、キラキラしながら報告してくれます。だから、息子が中高生になっても。ほら、なんだっけ、親に対して、あの……。
――反抗期ですか?
そう、反抗期。って言葉も出てこないくらい(笑)。親子でギクシャクすることは皆無です。
――2022年8月には東京と大阪で、9月には福岡で親子共演のステージに立たれました。
自分の分身のような存在と同じステージで奏でるというのはうれしいものですね。
――東京、福岡、以外にも、9月から11月にかけて、北海道、香川、奈良、石川など全国を飛び回っている東儀さんですが、大分といえば、何をイメージされますか。
全国を演奏で回っていますが、実はそれぞれの土地でゆっくり過ごす時間はあまりないんです。なので、大分といえば、温泉、とか。一般的な知識しかないのですが、時間があればゆっくり温泉巡りをしてみたいなとは思っています。
あと魚介類が豊富で、酪農も盛ん。日田牛というブランド牛が美味しいと先ほどお聞きしたんです。ホテルから出ないにしてもご当地グルメは楽しみのひとつなので、ぜひ食べてみたいです。「大分味一ねぎ」という細いネギのしゃぶしゃぶがあるんですよね? それも機会があれば味わってみたいです。
――お酒はどのようなものがお好きですか。
東儀秀樹といえば、ワイン語りながら飲んじゃうんじゃないの? ってイメージですよね(笑)。ところがですね、実はお酒はあまり強くないんです。ワインだったら1、2杯くらい。でも味は好きなんですよ。海外で出合った珍しいウォッカが美味しいと思ったら、その銘柄を覚えておこうとしたり。日本酒も最初のひと口の雰囲気はとても好きです。
――最後に、今後のご予定を教えてください。
ビジョン的なものはなにひとつないです(笑)。目的を作ってしまうと、目的達成までの過程で横から入ってきたものに対する余裕がなくなってしまうのが嫌で。キョロキョロする範囲が広がれば広がるほど、いい出会いも多いですよ。日本は教育の中で「目的意識を持って」と言われることが多いと思いますが、僕みたいに生きるのもいいと思います(笑)。
PROFILE
東儀秀樹(とうぎ・ひでき)
1959年10月12日生まれ、東京都出身。東儀家は、奈良時代から1300年間雅楽を世襲してきた楽家(がっけ)。父親の仕事の関係で幼少期を海外で過ごし、ロック、クラシック、ジャズ等あらゆるジャンルの音楽を吸収しながら成長。高校卒業後、宮内庁楽部に入り、在籍中は篳篥を主に、琵琶・太鼓類・歌・舞・チェロを担当。宮中儀式や皇居において行われる雅楽演奏会などに出演するほか、海外の公演にも参加。一方で、ピアノやシンセサイザーとともに、雅楽の持ち味を活かした独自の曲も創作。1996年デビューアルバム「東儀秀樹」で脚光を浴びる。2000年、「TOGISM2」で日本レコード大賞企画賞を受賞。同年「雅楽」以降9度にわたり、ゴールドディスク大賞 純邦楽・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。現在は、百人一首の朗読と雅楽を融合させたアルバム制作、他ジャンルの音楽家とのコラボレーションで海外や日本でツアーコンサートを開催するなど、雅楽器の持ち味を生かした独自の表現に情熱を傾ける。日本から世界へ「和」の心で世界を奏でるアルバム「世界の歌」を発売し好評を得ている。