タレント穴井 夕子
――お生まれは大分県玖珠郡玖珠町と聞きました。どんなところですか。
最寄り駅は豊後森(ぶんごもり)駅で、私の子どもの頃は賑わっていて、レコード店もサンリオショップも商店街もありました。西側は日田市と隣接していて、由布院温泉で知られる由布市からも近いところです。そこで15歳まで過ごしました。玖珠は「童話の里」として知られていて、あちこちに桃太郎など童話の主人公のモニュメントがあります。
その象徴となっているのが、伐株山(きりかぶさん)という伐り株のような形をした山です。ここにも古くから伝説が残っていて、もともとここに天にも届きそうな大きな楠(くす)があり、玖珠の村は一年中陽が当たらず、そのため農作物が作れないと、困った村人たちは大男にその楠を切ってくれと頼んで、切ってもらったそうです。そこからたくさんの町の名前ができたという伝説*1です。*1 伐株山の伝説:「豊後国風土記」では、玖珠(くす)という地名はこの地にあった大きな楠にちなむものであるという。楠の大樹が倒れた時に、「湖の淵が崩れて水がひた村(日田市)、どんなに大きくてもここまでは来るめー(久留米市)、その長い先っぽ(長崎市)、鳥の栖が落ちたところ(鳥栖市)、落ちた葉っぱの形(博多)、小さくクラっと揺れた(小倉)」などと、町の名前ができたとされる。出典:くすまち観光協会
――壮大な国づくり伝説のようなお話ですね。伐株山の思い出はありますか。
中学2年か3年生のとき、その伐株山で、映画「乱」(監督:黒澤明)の撮影が行われていたのを憶えています。撮影スタッフやエキストラの方々など、教室から大勢の人がいるのが見えて、ワクワクしました。
――子どもの頃から芸能人になりたいと思っていたのですか。
はい。歌手になりたかったんです。中学生の頃から「デビュー」というオーディション情報雑誌を買って、芸能界に入るチャンスを探していました。最終審査まで残ったら交通費が出るというオーディションを探して書類を送っていましたね。最終的に「ロッテCMあなたがスターだ!」の準グランプリと、「全日本国民的美少女コンテスト」のベスト10に入りました。
それで、15歳でソニーの新人養成所に入ってレッスンに通うことになりました。当時、3つ上の姉が進学で東京の大学も視野に入れていたので、そこに一緒に住むならということで、親に了解してもらい、上京したんです。雑誌「デビュー」の編集長が「ちゃんとご飯食べてる?」と気にかけてくれて、姉と食事に呼んでくださったりしました。まだ何者でもないのに、うれしかったですね。
――お姉様の上京が同時だったのも幸運だったのですね。そこからデビューまではどんなきっかけがあったのでしょう。
夏休みに母親が上京していたときのことでした。当時は原宿にあったライブハウス、ルイード(RUIDO)の前をたまたま通りかかったとき、アイドルグループ「東京パフォーマンスドール*2」のライブをやっているのを知って、母と一緒に軽い好奇心で入ってみたんです。ライブハウスならクーラーも効いているし、ワンドリンク付きだし、いいかなと。メンバーが15人ぐらいステージにいるのに、お客さんは5人ぐらいしかいない頃でした。
そのライブの帰りに、東京パフォーマンスドールのスタッフの方が追いかけてきて「どこかに所属していますか」と声をかけられたんです。「ソニーの養成所にいます」と言ったら「うちはEPICソニー*3だけど、つながりがあるので聞いてみるから」ということで。それがきっかけで、東京パフォーマンスドールの所属になり、芸能界にデビューすることができました。ようやく階段を一つ上がった感じがしました。*2 東京パフォーマンスドール:略称TPD。日本の音楽史上で初めて、多人数でスタイリッシュに歌って踊るアイドル・ライブグループのスタイルを確立した。穴井夕子さんが所属した第一期は1990年~1996年まで。同期に篠原涼子さんなど。
*3 EPICソニー:CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の社内レーベル。当時のEPICソニーレーベルからは佐野元春、大江千里、TM NETWORKなど多くの人気アーティストを輩出した。
――東京パフォーマンスドールのメンバーはその後、ソロとして活躍される方も増えました。つんくさんはそれを見て「モーニング娘。」を作ったと言われていますし。AKB48や乃木坂46などもその後に続いていきます。いろんな女の子がたくさんいるグループ、という意味で先がけでしたね。
そうですね。最初はチケットをもぎったりもしていました。CDを出すメンバーの選抜7人に入ったのですが、ヒット曲も出なくて……。デビュー当時は、大変なことが95%、楽しいが5%くらいな感じでしたね。ケータイもなかったので、父親から毎日家に電話がかかってきていました。大分に帰りたいけど、帰るわけにはいかないという思いもありました。
――穴井さんはステージなどでのしゃべりが上手で、バラエティー番組で人気者になっていましたね。
いや、最初はぜんぜん上手くできなくて、しゃべり方は相当研究しました。同じ話でも、話す順番を工夫して、ちゃんとオチをつけたら面白い話になるんだ、とか。なんとなくこつをつかんでからは、小堺一機さんが司会の「ライオンのごきげんよう」(フジテレビ系)やタモリさんが司会の「笑っていいとも!」(フジテレビ系)に出演させてもらえるようになりました。バラエティー番組をやりながら、たまにCDも出すという感じで音楽活動もしていましたね。
――タレントや歌手としての活動を通じて、みなさんの知るところになり、夢は叶ったのですね。
はい。でももう1つ、夢があったんです。それは、20代前半から5人ぐらい子どもを産んで“子沢山かあちゃん”になることでした。
――芸能活動の一方で、プロゴルファーの横田真一さんとの素敵な出会いがありました。
横田さんとは、NHKの「熱中ホビー百科」という番組を司会していたときにゲストでいらっしゃって知り合いました。初めて会った時から横田さんは「芸能人は顔が小さくてかわいいねぇ」と言ってきましたが、私は追いかけるのは好きだけど、追いかけられるのは苦手だったのではじめはツンケンしていました(笑)。
――そこからどんなふうに親しくなったのですか。
友だちから、横田さんが来るという飲み会に誘われたんです。私はお酒が弱いのでそういう場にはあまり行かなかったのですが「なんだか横田さん、夕ちゃん(穴井さん)が来ると言ったら喜んでるよ」と言われて、半ば仕方なく行ったんです。そこで電話番号を交換しました。
それで、あるとき、誰かとご飯が食べたいのにみんなスケジュールが合わなくて、最後に横田さんが残ったんです。乗り気じゃないと言いながら、私からご飯に誘ってしまったんですよ(笑)。そこから一緒に出かけることが増え、「お付き合いするなら結婚を前提にしたい」と言ったら、「まだ結婚したいとは思わない」と言われてしまいました。ここで私が彼を追いかける立場になってしまったのです。
――穴井さんの気持ちが強くなったんですね。
はい。あるとき、大分の実家に帰るのに、彼が羽田空港まで送ってくれたんです。そこで思い切って「大分に行こうよ」と言ってみました。彼は「クーラーもテレビもつけっぱなしで来ちゃったよ。それにこんな格好だし」と自分のスウェット姿を指して言っていました。でも私は「フグがめっちゃ美味しいんだよ。最終で東京に戻ればいいよ」と、フグで誘って、無理矢理飛行機に乗せちゃいました。空港まで迎えに来た両親にも「多分結婚するから」と紹介して。
――なかなか力づくのプロポーズですね(笑)。
はい、でもそのおかげで結婚することになりました。それはとても幸せだったけれど、さあ「かあちゃんになるぞ」と、婦人科でブライダルチェックをしたら私が不妊症だと分かったんです。それから2年間は不妊治療に取り組みました。今、19歳になる息子を授かったときは、本当にうれしくてうれしくて。誇張じゃなくベッドの上でトランポリンのようにジャンプしてしまいました。今思えば、妊娠初期にそんなことしたら危ないのにね。
――不妊治療のことはご著書「命に会いたい Baby meets MaMa」(実業之日本社)にも書いておられますね。
世の中には、もっと何年も不妊治療で苦しんでいる方がいらっしゃって、2年程度では苦しんだとは言えないと思ったのですが。本を出してから「諦めようと思ったけれど、穴井さんの本を読んで、頑張りました!」と、街で4~5回言われたことがありました。私、命を誕生させるお手伝いをしたのかな、とうれしかったですね。
――その後、娘さんも授かられて、その娘さんのYouTubeチャンネルにも、穴井さんはたまに登場されていますね。
娘は今年で15歳になりました。「まこチャンネル」というのをやっていて4,000人ぐらいフォロワーがいるんです。夫にそっくりで、ハマっているときは夢中で何かやっていますが、ぱっと飽きちゃう性格。でも今日の私のメイクは娘がしてくれました。「ママがやるとおばさんになっちゃう」って(笑)。
一方、息子は私の性格と似ているのか? コツコツ積み上げる派です。青山学院大学に入り、陸上競技部で駅伝をやっているので、寮に入っています。
――青山学院大学の陸上競技部は名門ですね。夫がプロゴルファーで、息子さんはランナーと家族にアスリートが2人いらっしゃいますが、食事などはどうしているのですか。
寮にいる息子には栄養や献立を考えつつスーパーに行って食材を選び、毎回5~6時間かけて冷蔵庫に保存できる作り置きおかずを作って、業者さんのようにクール便で送っています。
夫は月曜だけが休みなんです。火曜には出発して水曜日はプロアマ戦*4をやって、週末は試合という具合ですから、長いツアーだと家には居ないんですよね。たまにいる月曜日だから、一緒に外食したいという気持ちもあるけれど、野菜をいっぱい食べてもらおうと手作りすることも多いです。*4 プロアマ戦:トーナメント主催者がゲストを招待し、本戦前にプロゴルファーとのラウンドを楽しんでもらう懇親イベント。プロ1名とアマチュア3名の4人1組がチームとなり、団体戦で順位を決める。
――お料理も頑張られているんですね。ゴルフも駅伝も勝負のあるお仕事ですから、穴井さんも気を使いますね。
夫も息子も競技者の世界というのは、「これだ」というものをつかんだり、ダメだったりの繰り返しでしょう。息子は「絶好調だと思ったのに、走り出して5歩でダメだと思った」と言っていたこともあります。今現在は出さなといけないタイムが出ていなくて、マネージャーになるか退部するか、という状況にさしかかっています。私には何もしてあげることが出来ないので、大会の時などは神社に行ってお祈りしています。それくらいしかできない、代わってあげられないですからね。
――横田真一さんのYouTubeにご家族で出演されていたり、とても家族仲が良さそうです。家族円満の秘訣はありますか。
息子の存在が大きいかもしれないです。以前こんなことがありました。夫がレストラン経営、レッスン場の経営、シニア・ツアーへの挑戦と、忙しくて私の話を聞いてくれない時期があって、私の不満がたまりにたまって、夫、私、娘も入ってかつてないぐらいの激しい言い争いになりました。外は嵐の日でしたが、うちの中はもっと嵐(笑)。
そのとき、息子が「もういい加減にして」と仲裁してくれたんです。そして家族全員に一言ずつアドバイスをくれました。私には「ママは全てやっているけど、やってあげていると思い過ぎ」。娘には「お前は権利権利とよく言うけど、義務も果たしなさい」。そして夫には「パパも最近、優先順位の整理が付いてないんじゃない」って。
――すごいですね。息子さんが一番家族を俯瞰(ふかん)してらっしゃるんですね。
そうなんです。もう父の日は息子に感謝したいくらいです(笑)。
――上手に子育てされましたね。
私は本人の持って生まれたものが7割で、子育ては3割だと思っています。でもその3割の中に、愛情が入っていないとまずいと思うんです。生まれてきてくれて、存在してくれているだけでうれしいよ、というくらいの思いが親にはないと、と思います。
――ご家族で大分に帰られたりしていますか。
コロナの影響でしばらく帰っていないですが、コロナ前はしょっちゅう帰っていたんです。友人たちを誘って関アジ、関サバを食べるツアーも10回くらいやりました。昼は由布市にある金鱗湖(きんりんこ)の「湯の岳庵(ゆのたけあん)」というお店で地鶏茶漬けを食べて、夜は個室でフグを食べて。安全なフグの肝を食べられるのも大分の特権ですから。私が連れていった友人たちはみんな大分が好きになります。
子どもが小さいときは、別府市にある「別府ラクテンチ」という遊園地によく行きましたね。あひるのレースが有名なんですよ。九重(ここのえ)に行くと馬に乗れたり、湯布院では馬車に乗ることも。ああ、話してたら明日にでも行きたくなってきました(笑)。
――ブログを拝見すると、調味料の一部は大分のものを使用されているのですね。
大分の甘い醤油(しょうゆ)はずっと使っています。味噌(みそ)も少し甘みがあって最高です! 調味料ではないですが、干し椎茸(しいたけ)も大分のものが美味しいですね。
――いずれは大分に帰りたいと思ったりしますか。
私と夫はそれぞれ老後に住みたいところが違うんですね。夫はハワイが好きなので、将来ハワイに住みたいらしいんです。私は真逆で、雪が好きなので北海道に住みたいんですよ。息子はひょっとしたら私の父の会社に入るかもしれません。そうなったら大分かな。私すごくおしゃべりなんで、ずっと一緒にいたらうるさいって思われるから(笑)、家族でそれぞれの拠点を持って、私が転々と行き来するのが楽しいんじゃないかなと思っているんです。
――そんな家族の在り方も素敵ですね。穴井さんは雪が好きなんですね。ちょっと意外でした。
もう大好きで、東京でも天気予報で雪が降るって聞いたら、雪が降ってくるまで寝ないで待っているぐらい好きです。
――とはいえ、まだ実際の老後はだいぶ先ですね。これからどんなふうに活動されていきますか。
そうですね。最近はブログを書くのが楽しいですね。いつも読んでくださっている読者さんから、コメントやメッセージをいただくんです。まだ私のことを好きでいてくれる人がいる、ということが分かってうれしいです。
数年前に更年期障害であまり体調が良くなかった頃、テレビのコメンテーターの仕事はどうですかというお話をいただいたのですが、コメンテーターをやるとなったらたくさん勉強して、アンテナを張りまくって頑張らないといけないから、それはすみませんが、とお断りしました。
今は元気になりましたが、自分が得意なところで、いつも、どこからでも楽しい発信をしていきたいなと思っています。
PROFILE
穴井夕子(あない・ゆうこ)
大分県・玖珠町生まれ。1990年、アイドル・ライブグループ「東京パフォーマンスドール」に入団して芸能活動をスタート。1995年に同グループを卒業後、テレビのバラエティー番組出演、ラジオのパーソナリティー、ミュージカル出演、雑誌や書籍の執筆などで活躍。2000年、プロゴルファーの横田真一と結婚し、一男一女に恵まれる。著書に「ふたりはじめ」(青春出版社)、「命に会いたい Baby meets MaMa」(実業之日本社)。また、「大分県 子どもの虐待防止ポスターイメージキャラクター」などでも活動。