シンガーソングライター南 こうせつ
――こうせつさんは上京して伊勢正三さん、山田パンダさんと「かぐや姫」を結成し、「神田川」(1973年)で大ヒットをとばし時代の寵児(ちょうじ)となりました。しかしその後、比較的早い時期に東京を離れて山梨県の河口湖に移住されています。それはなぜですか。
20代前半に「神田川」が大ヒットして印税が入ってきて、最初は東京・青山に住みました。実は「神田川」の前に「マキシーのために」という曲を出しているんですけど、その歌詞に「青山にでっかいビルを建てて〜」って歌っていて、まさにそれ。東京で成功したんだから、一度は青山で暮らしてみたいなという田舎モノ根性です(笑)。
当時の東京は高度成長の真っただ中でしたから、日々街が変わっていって刺激的でしたね。まだ青山あたりにも夜中にやってるカフェは3軒ぐらいしかなかった。そこにファッションデザイナーの山本耀司(やまもと・ようじ)さんがいたり、BIGIのキクチタケオさんがいたり、後々大スターになるような人がウロウロしていた街でした。その頃僕はかまやつひろしさんとよく遊んでいたんですけど、かまやつさんが原宿に飲みに来て、キディランドの前にフェラーリを停めてね。飲んでて、ふっと気づいたらかまやつさんがいない。それで探しにいったら自分の車に立ち小便してました。いやーロックだなあと思いました(笑)。
――そんな刺激に溢れた青山からどうして河口湖に移住したのですか。
青山に住んでいるときに結婚して長男が生まれたんですが、子どもを育てるにあたって、僕の中で1つだけ満たされなかったのが「自然」だったんです。僕は大分市のはずれの竹中という大野川の流域で育ちました。団塊の世代で子どもが多いですから、もうみんなで大野川の河川敷で遊びました。バットなんか持ってないから竹を切ってバットにして、ボールもないから布切れを固めてボールにして野球をしてました(笑)。
そうやってドロドロになって遊んでいると夕方になる。河川敷の向こうにある村の小さな家々の煙突から煙が上がるんです。まだ薪でご飯を炊いてお風呂を沸かしていた時代でしたからね。煙が上がると帰るんです。その帰り道に見た夕焼けと一番星は、僕にとっての美の神で、忘れられない。今でも僕の原風景です。それが青山にはなかった。
それともう1つ理由があります。これは今まであまり人に話してこなかったことです。青山にいた頃に「おまえが大きくなった時 あの青い空に 白い紙飛行機が 夢を 運ぶだろうか」という歌詞で始まる「おまえが大きくなった時」という曲を作りました。でもその歌を歌っている自分は、大都会の真ん中の、自然の少ない所に住んでいる。それでは説得力がないよなって、自分に対して思いました。環境のことをメッセージにして歌うのなら、まず緑の多い所に行けよって。それで富士山に行きました。河口湖への移住は「自分の歌詞に責任を持つ」ための行動でもあったんです。
――なぜ河口湖だったのですか。
緑が多い所を探そうと中央自動車道(中央道)に乗って最初は府中あたりで降りて探したんです。うーん、ここでもない。それから八王子まで行っても、ちょっと区画整理されているなあと。どんどん東京を離れて行くうちに、富士山に突き当たっちゃうんですね。当時の中央道は河口湖まで。今の富士急ハイランドがある所で終わりでした。そこで降りて、頭に白い雪をいただいた富士山を見たとき「ここに住もう」って。それで河口湖付近の富士山の2合目近くに引っ越しました。それが27、8歳の頃です。
――その次に富士山から郷里の大分に戻られましたが、それはどういう気持ちの変化ですか。
富士山が寒かったんです。7年間富士山に住んでいましたけど、2合目ですから、夜、マイナス20度はしょっちゅうで、もう本当に寒い。桜が咲くのが5月の連休です。大分なら3月の終わり頃ですよね。葉が落ちるのも早くて緑を味わえる季節が短いんですよ。それならもっと緑を長く楽しめる所に行こうと。しかも大分で育っているから暖かい所がいい、広い土地で畑もやりたい、じゃあ九州だと思って次の引っ越し先を探し始めました。
――それで大分にUターンしたのですか。
実は違うんです。大分は最初、移住先のリストから外していました。大分は郷里だからUターンのイメージになるけど、それは嫌だったんです。ですから最初は九州でも南向きの都井岬(といみさき)、薩摩半島、有明湾沿いなど5、6カ所ぐらいに絞りました。それで鹿児島に行ってみたら、知らないばあちゃんに「夏には灰が降るからやめとけ」って言われたり、結局ほかの場所も縁がなくて、じゃあしばらく待とうかと思っていたんです。そうしたら、知り合いの不動産屋さんから「大分の国東半島に広い場所があって海も見えるけど、どうか」って連絡がきました。そのあたりは大分だけど、まぁ知人もいない所だし、いいかなと思って見に行きました。
さっそく行ってみるとアスファルトの道から左に曲がったとたんに石ころの道。それがうれしくてね。「みかんの花が〜」で始まる童謡「みかんの花咲く丘」そのものでした。そして石ころの道を1キロも行かない小高い丘の上に降りたら、向こうに別府湾と四国の海が見えました。それは富士山にいた頃、時々夢で見ていた風景と同じだったんです。ああ、地名も杵築(きつき)。自分の気づきのためにここにご縁をいただいたのかなあ、と思いました。
――それで杵築に移住されたんですね。
はい。やっぱり緑に囲まれた中で暮らしたかったんです。朝起きたら自然の虫の声や鳥の声にワーッと包まれて、夏なんかセミがものすごくうるさいんですけど、こういう環境を求めていました。小学生の頃に見た、夕焼けと一番星、それを大人になっても体験したかったのだと思います。
――杵築に移り住んで何年ですか。
もう40年住んでいます。来たときはまだ水道も来ていないので200m近くまで井戸を掘りました。もちろん下水設備もありませんから、水洗トイレの浄化する装置を付けたりと、インフラ整備も全部自分でやりました。いろんな意味ですごくいい勉強になりました。でもね、日本にいるかぎり、どんな不便な所に行っても、水と電気さえあれば全然大丈夫ですよ。
――こうせつさんは、音楽活動は東京、暮らしは大分と分離していますが、これは音楽活動にとってプラスなのでしょうか。
大分にいるからいい曲ができるのか、創作活動に有利なのかは分からないです。最先端のアレンジをするなら東京の方がいいんじゃないかな。刺激もあるし、アレンジャーやミュージシャンもいっぱいいますから。ただ僕たちはシンガーであるだけでなく、アーティストでもあって、やっぱり暮らしそのものがアートになっていくんですよ。売れるとか売れないとかは関係なしに、どんな曲を作るかは、その人がどう生きるかってことなんです。その意味で、今の暮らし方は僕にとってバランスがいいと思っています。
――東京に行くときは、気持ちが切り替わるのですか。
切り替わります。家から大分空港が近いので東京に行くのは便利なんですね。飛行機を降りて首都高に乗ったあたりで仕事モードに切り替わってきますね。
――故郷でもあり、移住先でもある大分に住んでみて、大分のいいところはどんなところだと思いますか。
大分の自然はやっぱりいいです。本当に自然に恵まれています。僕は木が好きで、東京を歩いていても、ビルよりも木を見てるんですよ。警視庁の前のクスノキとかね。表参道のケヤキとか。大分でも朝起きたら最初に木に挨拶します。「大丈夫か?」って木に聞くと「お前こそ元気か?」って言われます(笑)。
――大分は食べ物も美味しいですね。
美味しいです。野菜は家で作っているので、最盛期は買わなくてもまかなえるぐらい。それから美味しい魚がたくさんありますよ。城下かれいは有名ですよね。あとは関さば、関あじ。家のすぐ近くに美濃崎漁港という漁港があって、時々その市場に買いに行ったりします。
――お酒は飲まれるのですか。
ほどほどに飲みます。大分の酒といえば、なんといっても「いいちこ」ですよね。僕は日本中をツアーしていますが、「いいちこ」ってどこに行ってもあります。全国区なんですよ。大分から出てきて日本中で飲まれていてすごいなと思います。僭越ながら僕も大分出身ですから、いいちこは同志みたいな感覚があるんですよね。郷土大分から来て頑張ってる仲間だよなって。
ただ、僕自身は最近はワインが好きです。三和酒類さんの「安心院(あじむ)スパークリングワイン」が大好きなんですよ。お店にあれば、必ず注文します。釧路の酒屋にもあったし、東京のあるミシュランの星付きのレストランでも安心院のスパークリングワインを勧められたことがあります。「これ美味しいから」って。もう知ってましたけどね。
――2021年9月、コロナ禍の真っただ中にオリジナルアルバム「夜明けの風」をリリースされました。このアルバムにはどんな思いが込められているのでしょうか。
コロナ禍でコンサートのキャンセルが続いていったとき、今までお客さんの前で歌を歌うということを何十年もやってきたけど、これからどうなっちゃうんだろうという不安な気持ちになりました。ちょうどその頃にいただいた詞が、ピッタリと僕の気持ちに寄り添ってくれた。「夜明けの風」っていう歌詞でした。すぐにメロディーが浮かびました。今は歌えないけど、またいつかは絶対歌える日が来る。根拠はないけど朝はきっと来る、というものでした。この歌ができたら、あとは次々と曲ができていきました。
「歌うたいのブルース」は、デビューして50年たって70歳を過ぎ、妻が書いた詞に自分の人生を重ねてメロディーを付けた作品です。それまで山もあったし谷もあったけど、アーティストには人気があるときなんて本当にちょっとで、「NHK紅白歌合戦」に1回、2回出たぐらいでは一生は食べられません。これは断言できます。地道にコンサートをしながら自分の道を信じて歌っていると、新しいお客さんが増えていきました。そんなことを繰り返す、そういう暮らしを歌にしました。
――コロナ禍を契機に、それまでの活動を見つめ直すきっかけになったアルバムということでしょうか。
そうですね。コロナでコンサートがなくなっていって、家にいて思ったのは「ああ、やっぱり僕は歌が好きだな」ということでした。ギターも好きだし人前で歌うのも好きなんですよね。 ギターを始めた頃は、お客さんが7、8人の小さな店でライブをよくやりました。それでも一生懸命歌って楽しかった。ライブが次々と中止になる中でそんなことをよく思い出していました。
――2022年にはデビュー53周年を迎えるというキャリアをお持ちのこうせつさんですが、これだけ長い間歌を歌い続けてきた理由はなんでしょうか。
初めてラジオで音楽を聴いたときのワクワク感や、ギターを弾いて歌ったときの歓びが忘れられないのだと思います。思えば小学校4年のときにラジオでプレスリーの「監獄ロック」を聴いたときは衝撃でした。聴いたことのないリズムで、それがロックンロールというらしい。しかも歌詞がお前を抱きたいだの、今夜は離さないって露骨な歌詞。ああいいなあ、って。
その後ピート・シーガーが、ギター1本で歌っていて、これがフォークソングだと。さらにボブ・ディランが出てきて「戦争はやめろ」と歌うわけです。こっちは多感な中学生ですから、どんどん惹かれていって、たどり着いたところがフォークでした。そして今も、それが楽しくてギターを弾いて歌っているんです。
――こうせつさんの歌に勇気づけられる人は、世界中にたくさんいると思います。少しずつコンサートも動き始めていますし、今後もぜひ多くの方に素敵な歌をお聴かせください。
はい。ぜひ。ライブがやっと、徐々にですけど動き出していますから。ただ、僕は全てがコロナ前のようにはならないと思います。コロナ禍は、ある意味で、世界の人たちが今までのような消費文明を続けていっていいのか、という疑問を投げかけているのだと思います。せっかく神様が人間を生物の王様にしてくれたのだから、その王様は自分のものをみんなに分け与える度量がないとダメなんです。やっぱり多くを手にした者は、それを独り占めにせずみんなに分け与えるというのが、人間の姿だと思いますね。
PROFILE
南こうせつ(みなみ・こうせつ)
大分県大分市出身。1970年にデビュー。直後に「かぐや姫」を結成し「神田川」「赤ちょうちん」「妹」など、数々のミリオンセールスを記録。解散後もソロとして「夏の少女」「夢一夜」などのヒット作品を発表。75年に静岡県『つま恋』で国内初の野外オールナイトコンサートを吉田拓郎と共に開催し6万人を集める。76年に日本人ソロアーティストとして初の武道館コンサートを開催。2006年に「吉田拓郎&かぐや姫コンサートinつま恋2006」を開催、31年ぶりのビッグイベントは社会現象にもなった。還暦を迎えた09年9月に『つま恋』で伝説の「サマーピクニック」を復活し、NHK BSで異例の7時間生放送。13年には島倉千代子本人の希望で「からたちの小径」を提供、これが島倉の遺作となる。14年9月にデビュー45周年記念「サマーピクニックLove&Peace」を大阪万博公園東の広場で開催。19年、デビュー50周年を迎え、オリジナルアルバム、ベストアルバム、エッセイ本を刊行。9月に「サマーピクニック~さよなら、またね~」を福岡の『海の中道海浜公園』で開催。21年、2年半ぶりのオリジナルアルバム「夜明けの風」を発売。73歳を迎えた今もなお、精力的にコンサートを中心に活動中。