女優財前 直見
――最初に上京されたのは18歳のときですね。
はい。高校を卒業するまで大分にいました。ひょんなことからあるオーディションの最終審査4人にまで残ったと連絡をもらったのですが、こんなことはなかなかあることではないと思いました。その中から最後の一人に選ばれた。それでお誘いのあった芸能界にチャレンジしてみようかという気になったのです。当初は女優になる気持ちもありませんでした。東京には親戚もおらず、頼る人もいない。でも帰りたいとは思わないくらい、楽しかったですね。
――そこで女優になろうと思ったのは、何かきっかけがあったのですか。
当時は与えられた仕事をただ楽しくやっているだけだったのですが、あるとき、マネージャーに「そんなんだったら田舎へ帰れば?」と言われたんです。そのとき初めてお芝居を本格的にやりたい、と思えたんですね。もっと勉強しなくてはいけないし、挑戦しなくちゃいけない。私を目覚めさせてくれた一言でした。
――その後、テレビドラマや映画にたくさん主演しておられます。何か具体的に転機となった仕事はありましたか。
1990年公開の角川映画の「天と地と」に出演したのが大きな転機になった気がします。女騎馬隊長の役ですから、先頭馬に乗って毅然(きぜん)としていなくてはならない。ですから乗馬も練習して。ものすごいバジェット(製作予算)の映画で、1,000頭の馬に3,000人のエキストラです。1カ月半のロケでしたが、そういう映画に出させてもらえて、本当に恵まれているなと感じました。
――その後もトレンディドラマや刑事ドラマなどにご出演されて、ずっと活躍されています。結婚願望はありましたか。
30歳を超えた頃から、結婚に対してはやや焦りがありました。結婚そのものというより、出産にはリミットがありますから。ずっと女優をやり続けていたら子どもは産めないなと。代表作にも恵まれていたので、女優業もひと区切りついたのが30代後半。37歳で結婚し、40歳で出産しました。
子どもができたときに考えたのは、どう育てるかだったのです。マネージャーに子どもを保育園に迎えに行ってもらうようなことはしたくないなあ、と。子育てをするには、大分がいいなあとぼんやりと思い始めました。
――何か背中を押すような出来事はありましたか。
お食い初めをするときに、スーパーに尾頭付きの鯛を買いに行ったら、「予約が要ります」と言われて驚いたんですね。大分ならいつもスーパーに並んでる。なんだか、心が豊かじゃないなあとその時、思いました。そんなこともありましたが、やっぱり自分の手で、自分が育ったように愛情を注いで育てたい、と思ったのが一番ですね。
――東京では、そんなふうに子育てするのは難しいと感じられましたか。
私は東京では女優としか見られていないですからね。女優の子として子どもを育てたくなかったのです。本来、女優もいろんな職業のうちの1つなんですけど。東京で育てていたら、セリフを憶えるときは面倒を見ていられないし。仕事に出てしまえば、ベビーシッターさんにお願いすることになってしまいます。大分にいたら、私の両親が一番愛情を注いでくれますし、近所の人たちも私が小さい頃から知っている人たちですから安心です。
――ご両親は今もお元気なんですね。
両親は父が81歳で、母が80歳です。父は土日は畑仕事をして、ゴルフして。近場に良いゴルフ場があるので、40年ぐらい、仲間とやっているようです。この間は母が蜂に刺されたというのをおんぶして山を降りてきましたよ。
――畑仕事をしているから、健康でいられるのですね。
土の中には微生物がたくさんいて自然に循環していますし、土の上を歩くのは、大地を踏み締めている感があって体に良いのでしょうね。人間も植物と同じなのかも。
――先頃出されたご著書「直見工房 財前さんちの春夏秋冬のごはんと暮らし」では、畑で採れたものをご自身の手でさまざまな保存食などに加工しておられますね。
父が畑仕事をしてくれているおかげで、母と私が加工担当ですね。季節ごとにやることがいっぱいあります。ちょっと前はかぼすの皮、柚子の皮で柚子胡椒(ゆずこしょう)を作ったり。麦と大豆、十六穀米(じゅうろくこくまい)で甘酒を作ったり。自然療法の勉強をして、よもぎのエキスをワセリンに混ぜてよもぎワセリンを作ったり。これは踵(かかと)のひび割れなどに良いのです。びわの葉をホワイトリカーに漬けたエキスを、虫に刺されたり吹き出物が出たときに付けたり。母の頭の中にだけあってレシピにしていなかったものや、自分で調べて試行錯誤したものなど、いろいろあります。
――発酵食品もいろいろ手がけておられます。
発酵、特に麹を使うのは日本独特の文化ですよね。発酵させることで酵素になって毒素を分解してくれたり、旨みを生んでくれたり。塩麹などは時々かき混ぜてあげないといけないけれど、そうやって手をかけることで、愛情を注いでいるんですよね。
私はかりんジュース、みかんジュースなど、どんどん漬けるので氷砂糖やはちみつの瓶が増える一方です(笑)。漬けたあとの果実はジャムにしたり。
――作ったものをご近所の方とやり取りされたりもしているようですね。
かぼすをお裾分けすると、新鮮な鯵(あじ)や鰤(ぶり)になって戻ってきたり。白菜や大根になったり。物々交換をしながら、また「あそこの病院はいいよ」なんていう地元ならではの情報交換もするんです。
――そういう暮らしから、人間の本質が見えて来るのかもしれませんね。
そうなんですよ。両親の温泉友達が突然亡くなったとき、銀行からお金が下ろせなくなってそのご家族が困ったとか。そういうリアルな話が聞こえてくるんですよね。誰もが喪主(もしゅ)になる可能性があるわけじゃないですか。それで、私は終活ライフケアプランナーの資格も取りました。そして2019年には「自分で作る ありがとうファイル」(光文社)を出版しました。
エンディング・ノートというのはたくさんあるけれど、間違ったり、気が変わったりすることもあるでしょうから、私は入れ替えができるファイル式にしたんです。それから、急に救急車で運ばれるとか、急に入院することも想定して、保険証や診察券のコピーもファイルに入れられるようにして。知人たちにも「本当に助かりました」と言ってもらえて、よかったなと思います。
――「自分で作る ありがとうファイル」を出されたときのインタビューで「ご先祖に守られていると感じる」とおっしゃっていました。
そうですね。財前家は紀貫之(きのつらゆき)で有名な紀家の人たちが大分に来たことが起源と言われています。古いお墓には「紀」の文字があるのです。うちは本家ではありませんが、住んでいる大分市から1時間ほど車で行ったところに先祖代々の山があり、お墓があるのです。そういう変わらない環境があることもほっとするのです。
――そういう縦のつながりに導かれて大分に戻られたようなところもあるということですか。
ずっと一緒にいたいと思う人たちがいた、ということですね。両親を選んで生まれてきた気がしています。生まれてきて最初に出会うのが家族だし、人間関係の原点ですから。血筋がどうこうというよりも、家族の在り方そのものに意味があると思っています。上京して自分なりに女優の道を切り拓けたことも、今、受け身ではなく発信する力を持てたことも、帰れるところがある強さがあってこそだと思います。
――これから、どうなっていきたいですか。
いまは、もの、お金、ステイタスの時代から、ハート、家族、純粋さの時代へと移り変わっていると思います。物を売って利益を追求することが最優先事項だったのが、心が豊かになること、体が喜ぶことが最優先事項に。そういう時代に対応して私はすでに生き方を変えられているのかな。
――たくさんの人や企業がコロナ禍で地方へ移りました。財前さんの生き方は先取りだったなという感じがします。
大分に戻ったことが先取りであったかどうか、自分では分からなかったりしますけれど。ただ、食べ物があるだけで焦らずに済みますからね。「ないよ」と言うより「あるよ」と言えることの幸せがあります。
――財前さんのお子さんも、きっとたくましく育たれているのでしょうね。
子どもには、個性、発想力、発信力を磨いてほしいと願っています。生き抜ける力を身につけてもらいたいですね。
――最後に、たくさんあると思うのですが、大分の魅力についてひと言お願いします。
銭湯の感覚で毎日のように気軽に温泉に行けることですね。温泉友達との語らいも、社交の場になっています。大分の人ってみんな、車の中にタオルと石鹸とシャンプーみたいな「温泉セット」を持っているんですよ(笑)。
写真協力:深澤慎平、邑口京一郎/宝島社
衣装協力:イヤリング Capricious/リング NINA RICCI
PROFILE
財前直見(ざいぜん・なおみ)
1966年1月10日、大分県生まれ。1985年、女優デビュー。シリアスな作品からコメディー作品まで、数々のテレビドラマや映画に出演。主な出演作品は、ドラマ「お水の花道」(1999年/フジテレビ)、連続テレビ小説「ごちそうさん」(2013年/NHK)、同「スカーレット」(2019年/NHK)、大河ドラマ「おんな城主 直虎」(2017年/NHK)、ドラマ「連続ドラマW 黒鳥の湖」(2021年/WOWOW)、映画「天と地と」(1990年/東映)など多数。「ありがとうファイル」のトークショーなどの活動も積極的に行っている。2007年より大分県に移住し、父、母、息子と4人暮らし。大分発地域ドラマ「君の足音に恋をした」(2022年/NHK-BSプレミアム)が3月23日に放送予定。