映画監督・脚本家 犬童一心
犬童一心が大分とどんな関わりがあるのか、と思われる方もいるかもしれない。
確かに私にとって大分は、遠いような近いような場所である。
それがあるとき、ぐっと距離が縮まった。
もともと、私の両親の実家が熊本だった。父は東京・世田谷で自営業を営んでおり、盆暮れには東京から一晩かけて熊本へ帰った。
私が小学生の頃は、休みになれば帰ることが当たり前で、その当たり前は家族にとってとても大事なことだった。東京から熊本まで寝台車で一晩かけてたどり着く。そこからさらに車でかなりの時間をかけて、球磨郡相良村というところまで行くのである。熊本の南端で、人吉市に近かった。
やがて空路でも行ける時代が来る。YS-11という国産のプロペラ機で行くようになったのだ。その後、東京-博多間を新幹線で行く手段も現れ、やがてジェット機になった。そのときになって人吉付近は大分空港からも近いことが判明したのだ。
大分空港まで飛行機で行き、空港から大分市までホバークラフトに乗る。ホバークラフトというのは2009年まで運航していた水面を浮揚して進む高速航行船だ。大分駅からは列車で向かうか、叔父が車で迎えに来てくれることもあった。懐かしい想い出だ。これはかなり楽しい海路であったけれど、そのうち、混み合う時期のチケットを買いやすかったのか、熊本空港に行くことに落ち着いてしまった。
のどかに映画を楽しむ「湯布院映画祭」
そんな大分との縁は、私が映画監督になってから「湯布院映画祭」に招待されたことでまた濃くなることになっていく。1998年、初めて撮った長編映画「二人が喋ってる。」が招待されたのだ。「湯布院映画祭」は、特にコンペティションがあるわけではなく、参加者が映画鑑賞を楽しむのどかな映画祭だ。野外上映などもあって、子どもの頃のことを思い出した。
映画祭の夕刻、少し涼しくなって、わらわらと地元の人が集まってくる。そこで見た「ひばり・チエミの弥次喜多道中」が、私の最も好きな時代劇映画の1つになった。娘時代の美空ひばりと江利チエミが時々歌も唄うミュージカル仕立て。ナチュラルな今と違って昔のカラーなので、とても発色が良く独特の嘘っぽさが魅力だった。それが時代劇やミュージカルといった虚構性の高い世界にとてもマッチする。
見えない誰かがつくった夢の空間
世代を超え、日常もいろいろな人たちがみんな同じ映画を見つめ、心から楽しむ。1時間半ぐらいで終わってしまう。その感じもちょうど良かった。その後、世界中の映画祭に参加したけれど、「湯布院映画祭」は初めて映画に親しんだ頃の子ども時代を思い出させてくれる何かがあった。
湯布院には、何か演劇的な目に見えない舞台があるのかもしれない。
そのとき泊まった旅館も悪くなかったが、4〜5年前に両親と弟家族とで泊まった山荘無量塔(さんそうむらた)という旅館がとても思い出深い。まさに黒澤明監督の撮影のセットに入ったような、演出的に計算された場所だった。明治中期の古民家をもとに、さらに古い感じを出すために、柱や床を磨いてある。
日々の現実とは遠く離れた、見えない誰かがつくった夢の空間。そこには永遠に延びている時間軸があった。その場所は自分の思考の空間と時間軸をも、みるみる広げてくれるのである。
主人公の柳吉と蝶子が別府に引っ越したという設定なのだった。また正編同様、柳吉はややおとなしくなったものの、ふわふわと浮気の虫を抱え、遊郭に通う。蝶子はそんな夫を「しっかりしなはれ」と言いながら生きている。この続編の別府の描写が非常に丁寧なのである。それもそのはず、オダサクの姉夫婦が執筆当時実際に別府に住んでいて、オダサク自身も通っていた。そして、なんと今もそのときの街並みがそのまま残っている場所がある。
私は大塚さんに連れられて、別府市内のその街並みを確かめながら歩いた。蝶子が働く割烹文楽は文楽荘という旅館がモデルだった。そこだけは今は駐車場になっていて形はなかった。が、登場する喫茶店は中華料理店になっていて、住んでいたところは魚屋になっていたが建屋は残っている。向かいに美容室があるという設定だったが、それは今も営まれていた。
「夫婦善哉」の続編はおそらく昭和10年代に書かれたものだ。すぐに出版されなかったのは戦時中の検閲に引っ掛かったからだという。その頃の建物が残っているというのは、なんともほっとすることではないか。それらは文化財でもなく、意識的に残したわけでもない。建て替えるほどのことでもないよ、という感じなのかもしれない。当たり前に経た時が、そこにあるのだ。
そのほっとできる町の感じが、続編とつながっている。オダサクの持つ明るさ、ちょっとやそっとのことはその場で跳ね返すような大阪の町のエネルギーとはまた違う。オダサクも少しおとなしく、異世界として書いている。世の中に対して見せつけたいというより、ひとりになって迷いを残したまま書いたようなテンションだ。
そういうことを、大塚さんと語り合った。大塚さんは「福岡インディペンデント映画祭」の選考をしている中心人物で、毎回、出品作を全部見て感想を残している。実は、そんな一言で片付けられないくらい、全部見るということは大変なことなのだ。酷い映画もたくさんある。膨大にある。しかし、その中には間違いなく才能が潜んでいる。それを見つけ出す。そういう人がいるから、映画は続いていくのである。
大塚さんは小さい頃から色々な土地を転々として育ってきた。律儀な性格で、とにかくフィールドワークが好きな人だ。ドキュメンタリー映像にも造詣が深く、日本のテレビで放送されるドキュメンタリー作品も全部見ようと努力して、感想を残しているという。稀有な人である。別府という町は、そういう心根を育てる町なのかもしれない。
例えば映画の見せ方にしても。別府には「ブルーバード劇場」という古い映画館がある。小さいけれど、映画通が観たい映画をかける。「アベンジャーズ」をやればもっと人が集まるかもしれないのに、アジアのドキュメンタリーや、ヨーロッパの新人監督が撮った映画をかける。
劇場が自分で客をつくり育てたい、それはシネコンとはまるで違う考え方だ。一生、映画を大事にして、好きな映画は繰り返して観る。そんな映画館で観てもらえる映画を作らないと、と私は今、考える。
大分の全体像を語るのは難しいけれど、少なくとも由布院温泉と別府温泉を比べても、大きく味わいが違う。味わいは違うけれど、私の心に触れるあたたかさは同じなのだ。
*織田作之助(おだ・さくのすけ):大阪の近代日本文学を代表する作家の1人。代表作は1940年に発表した「夫婦善哉(めおとぜんざい)」。作家として活動した当時の愛称は「織田作(オダサク)」。太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に新戯作派(無頼派)などと呼ばれた。
(構成:森 綾)
PROFILE
犬童一心(いぬどう・いっしん)
1960年東京生まれ。97年「二人が喋ってる。」で長編映画監督デビュー。公開作品は「ジョゼと虎と魚たち」(2003年)、「眉山 -びざん-」(07年)、「グーグーだって猫である」(08年)、「ゼロの焦点」(09年)、「引っ越し大名!」(19年)、「最高の人生の見つけ方」(19年)など多数。「のぼうの城」(12年)では日本アカデミー賞優秀監督賞を受賞。2022年1月に舞踊家田中泯を追ったドキュメンタリー映画「名付けようのない踊り」公開。