株式会社ビオックの村井 裕一郎 (むらい・ ゆういちろう)社長。手に持つのは昭和ごろに使用していたとされる一升枡

もっと語ろう麹と発酵 Vol.17種麹メーカーの仕事は
ガスや電気のような
インフラに近いものだと
考えています

糀屋三左衛門29代当主
株式会社ビオック代表取締役社長
村井 裕一郎

室町時代に京都で創業した「糀屋三左衛門(こうじやさんざえもん)」にルーツをもつ種麹メーカーの株式会社ビオック。種麹メーカーの通称は「もやし屋」さん、あるいは「種麹(たねこうじ)屋」さん。1965 (昭和40)年に拠点を愛知県豊橋市に移転し、事業を続けていらっしゃいます。現在、日本にある種麹メーカーは10社程度。その中の1社であるビオックは、全国の醸造を営む企業の約7割に種麹(麹菌)を提供するほか、一般の方にも麹の正しい知識を身に付けてもらい、麹文化を繋いでほしいという思いから「麹検定」の運営を2024年から開始。種麹メーカーというお仕事のこと、日頃の取り組み、麹菌の未来への展望などを伺いました。
文:藤田千恵子 / 写真:三井公一

種麹を集めて製造、商品化して、醸造メーカーに供給

――種麹屋さんって、どういうお仕事をされているのですか。

そうですね、そもそも種麹というのは何なのか、というお話からになると思います。日本酒や焼酎、味噌、醤油、酢、みりんなどの醸造物には、製造の過程で麹が使われます。各醸造メーカーさんが麹を使う時には、麹をつくる元になる麹菌が必要ですが、その麹菌の胞子を集めて商品化したものが種麹で、それを醸造メーカーさんに供給することが我々の仕事です。

株式会社ビオックの村井 裕一郎 (むらい・ ゆういちろう)社長

取引先は日本全国です。日本酒メーカーさん、味噌・醤油のメーカーさんがそれぞれ800社くらい。あとは焼酎メーカーさん、各地の麹の小売り屋さんにも提供しており、全体として3000社くらいになります。

蒸した米に麹菌をまいてつくられた米麹。写真は焼酎造りなどに使われる白麹菌蒸した米に麹菌をまいてつくられた米麹。写真は焼酎造りなどに使われる白麹菌

奈良時代初期に成立したと言われる「播磨国風土記(はりまのくにふどき)*1」には、カビを使って醸したお酒の記録が登場します。そのカビが何だったかというのは、タイムマシンに乗ってみないと分からない話ですが、十中八九、「アスペルギルス・オリゼー(黄麹菌)」*2だったのではないかと考えられます。*1 播磨国風土記(はりまのくにふどき):奈良時代初期、713年頃に編纂されて天皇に献上された播磨国(現在の兵庫県付近)の風土記(地誌報告書)。

*2 アスペルギルス・オリゼー(黄麹菌):黄麹菌は主に日本酒、味噌、醤油、甘酒などの製造に使われる。このほかアスペルギルス・リューチューエンシス(黒麹菌)は泡盛や焼酎、アスペルギルス・リューチューエンシス・ミュット・カワチ(白麹菌)は焼酎の製造に使われる。

足利将軍の許可を得て京都で種麹業をスタート

――御社のご商売が始まったのは、いつ頃のことになるのですか。

種麹屋という商売が興ったのは、室町時代のことと言われています。京都で商いを始めた、ビオックの前身である祖先の糀屋三左衛門は、当初から13代将軍足利義輝(あしかが・よしてる)の許可を得て、北野天満宮の麹座*3の座員として種麹製造業を開始したようです。その際に足利公から種麹業の許可証として賜ったとされる木版は、家宝として代々引き継がれています。後にその木版を墨で刷った販売袋で種麹を販売したことから「黒判もやし*4」と、呼ばれるようになりました。*3 麹座:酒造りのための優良な麹を専門につくり、酒蔵などに売った種麹屋の同業者組合。

*4 もやし:麹菌の俗称。麹菌の菌糸が伸びる様子が若草の萌える様子にたとえられ、萌やしと呼ばれるようになった。

13代将軍足利義輝から賜ったと伝えられる、種麹業の許可証を刷りだす木版13代将軍足利義輝から賜ったと伝えられる、種麹業の許可証を刷りだす木版
木版から和紙に刷りだした種麹業の許可証(写真提供:株式会社ビオック)木版から和紙に刷りだした種麹業の許可証(写真提供:株式会社ビオック)

――室町時代に種麹屋というご商売が始まる以前、人々はどのように種麹を入手し、麹をつくっていたのでしょうか。

種麹屋ができる以前の醸造物は、友麹(ともこうじ)*5でつくられていたか、あるいは蒸し米の上に自然に麹菌が入り込み、麹が出来上がるのを待つかのどちらかであったと推定されています。専業の種麹屋が登場したことによって、麹菌という微生物を米麹とは別に分けてつくっておくようになりました。*5 友麹(ともこうじ):完成した麹を残しておいて、次の麹づくりの際に用いる方法。

品質の安定した種麹の誕生というのは、一般には麹菌にアルカリ性の木灰(きばい)*6を混ぜたことがきっかけになったというふうには言われています。それを確定的にお伝えできればいいのですが、でも、それを実際にどうやっていたのかということは、基本的には秘伝なんです。*6 木灰(きばい):クヌギなどの落葉樹を焼いて作った灰を使う。これを麹菌と混ぜて蒸した米などにまくとpH(水素イオン濃度指数)が一気にアルカリ性に傾いて乾燥するため、麹菌以外の微生物や雑菌は繁殖しにくい環境になる。こうしてつくられた胞子を集めて種麹として販売した。(参考:「koji note」もっと語ろう麹と発酵 Vol.13【後編】) 

種麹屋というのは、そもそも数が少なくて、江戸時代の前半には、京都に2軒あるだけでした。そのうちの1軒はうちで、あとは競合企業がもう1軒だけです。江戸時代後期になると、やっと4、5軒に増えましたが、江戸時代も基本的には種麹のつくり方は、やっぱり秘伝だったんです。

  • 細かな粒子の種麹。左から白麹菌、黒麹菌、黄麹菌細かな粒子の種麹。左から白麹菌、黒麹菌、黄麹菌
  • 種麹はこのような遮光性、防湿性に優れた素材の袋に封入されて醸造メーカーに届けられる種麹はこのような遮光性、防湿性に優れた素材の袋に封入されて醸造メーカーに届けられる

江戸時代の種麹は、日本酒と一部の味噌用として使用されるだけでした。ただ、明治時代に入って、ある程度、 生物学が発達してきたことで、学者さんたちが種麹とは何かということをつまびらかにしていく過程で、麹菌にアルカリ性の灰を混ぜるという方法の生物学的な効果などが表に出てきます。

それから、種麹屋が産業化していく過程で、 日本酒や味噌以外の醤油 、おそらく焼酎にも種麹が用いられるようになったようです。江戸時代の種麹のつくり方がある程度分かってきたのは、うちの競合企業さんが1961(昭和36)年にご商売を辞められて、その時に古文書が京都市に寄贈され、それを閲覧できるようになったという経緯もあります。うちの先祖たちがどういうつくり方をしていたかということは、残念ながら資料が散逸してしまっているため、記録が残っていないのですが。

家業を継ぐことに気負いとか葛藤みたいなものはなかった

――長らく京都でご商売をしておられましたが、愛知県豊橋市に移ってきたのはどんな理由からですか。

祖父・村井豊三(むらい・とよぞう)が京都本家の三男でしたので、のれん分けという形で、また土地のことや資金面などでご協力くださる方とのご縁もあって、1965(昭和40)年に豊橋市に移って分離独立をしました。土地の市場性という面では、愛知県は酒、味噌、醤油、すべての醸造業が盛んです。

また、開通したばかりの東海道新幹線で東京、大阪に日帰りできるようになったという利便性もありました。さらには、豊橋駅と長野県の辰野駅を結ぶJR飯田線があるため、信州の味噌会社さんにも行きやすいということで、人のご縁と地理的な好条件が重なったのだと思います。

京都時代から「黒判もやし」の名称で知られる種麹屋の糀屋三左衛門が印字された梱包箱京都時代から「黒判もやし」の名称で知られる種麹屋の糀屋三左衛門が印字された梱包箱

――村井さんご自身は、このお仕事を継ぐという意識はいつごろ持たれましたか。

幼稚園だったか小学校低学年の頃には、既に継ぐつもりでいましたね。小学校の次は中学校に行き、その次は高校に行くみたいな感じで。大学を卒業したら種麹屋さんを継ごうという世界観でした。通っていた小学校の地域も農業を含めお店や工場など自営の人が多いという環境でしたから、家業を継ぐのは当たり前すぎて、あらためて決意したようなことはなかったですね。むしろ、中学生くらいになって、世の中には継ぐ家業がない人がいるってことに驚いていたくらいで(笑)。

――室町時代からという長い歴史を持つ伝統産業を担うということに、重圧はありましたか。

それがね、ないんですよ。ないない(笑)。僕は趣味で短歌を詠むのですが、「家を継ぐ 葛藤などもせず 家業を継いで10度目の春」という歌で入選したことがあって。これは、葛藤しないまま継いで10年過ぎちゃったなっていう歌なんです。気負いとか葛藤みたいなものは僕の場合全然なかったです。

――種麹だけではなくて、酵母や乳酸菌の製造販売もされていますが、それらはいつ頃から始められたのでしょうか。

父の代からですね。1992(平成4)年に株式会社ビオックを設立して、微生物工場のスペシャリストになるということを経営方針として据えました。なのでビオックは麹菌のほかに乳酸菌や酵母菌、そのほか食品に限らず様々な微生物も扱う会社として、株式会社糀屋三左衛門は麹菌の販売など伝統的な役割を存続して担う会社として分業しました。

右手に持つのは長年使い込まれて丸みを帯びた一升枡。麹を均等な量に分けていく作業に使われた右手に持つのは長年使い込まれて丸みを帯びた一升枡。麹を均等な量に分けていく作業に使われた

――取引先の会社の数がとてもたくさんありますが、例えば日本酒や焼酎、味噌、醤油、それぞれの醸造元から、カスタマーサービスのような、個別対応を求められることもありますか。

それは、あります。イメージ的には、オーダースーツとまではいかない、吊るしのスーツなんですが、ボタンを変えるとか、丈を直すぐらいの微調整はするというようなセミオーダーで対応してますね。例えば、日本酒用の麹であれば、気候の影響で原料のお米が硬いという年に、その米に向くような麹菌を提供するというような。そういう微調整はあります。

カカオ豆の代替として、麹菌の力を使う試みも

――具体的にはどのような調整をするのでしょうか。

種麹は通常、1袋70グラム入りの袋で販売します。その袋の中の種麹を1つの菌株だけでつくることは少ないんですよ。むしろ複数の菌株を組み合わせる複菌の方が多い。いろいろな菌株を混ぜて、菌株の選択やそのブレンド比率を変えることで調整します。

先方からつくりたい酒質の設計を聞いて、それに対して、こういったことができますよということはお伝えします。ただ正直、種麹というのは、極端に変化することはあまり求められていないんですよ。そもそもの話として基幹原料ですから、特色を出すということよりも、麹菌が毎年、毎回同じような挙動をするという安定感の方が求められている。

本社社屋内にあるラボラトリー。向かって左が研究室室長の白石洋平さん、右が品質管理担当の橋爪宏昌さん本社社屋内にあるラボラトリー。向かって左が研究室室長の白石洋平さん、右が品質管理担当の橋爪宏昌さん

例えば、原料のお米200キロに対して種麹を70グラムまいた時に出る結果が、毎年変わらず安定することが求められている商品なんです。なので技術的に大きな革新や変化というものもないですね。どちらかというと、我々の仕事というのは、ガスとか電気のようなインフラに近いものだと考えています。電気の電圧が、日によって違うようなことが起きたら困るのと同じように、種麹の性質が安定しないのでは困ると思うんです。

遺伝子というのは、親から子に世代交代する時にDNAのコピーミスが起きるのですが、それが蓄積していくと人間にとっても ある程度認識できる変化になる。うちの仕事としては、そうならないようにコントロールをしますし、まさにそこが種麹屋の存在意義ですね。もちろん、新しい菌株の育種なども大事な仕事ですが、実務としては、既存の商品として流通している菌株と、そこから出来る種麹について、いかに変化を抑えてコントロールをするかということが、種麹メーカーの一番徹底的なノウハウということになりますし、そこが企業秘密にもなるところですね。

――村井さんは、今のお仕事をどのように発展させていこうとお考えですか。

現在、会社では、製造業から文化の創造を見ていくことをテーマに掲げています。種麹という商品だけではなくて、これまで受け継いできた伝統と、それから科学的知見と、その両方を生かして、新しい食文化を創っていければと。

――最近は、一般の方々の間でも発酵食や飲料に興味を持つ人が多くなりました。一般消費者へのアプローチも増えていくのでしょうか。

そうですね。一般消費者の麹への関心の高まりは感じます。特に塩麹ブーム以降、ご自宅で麹を使う人も増えてきていますね。あとは、醸造メーカーさんだけじゃなくて、レストランや食品メーカーの方々も麹や麹菌に興味を持たれていて、サプリの開発などでお問い合わせをいただくことも増えてきています。

歴代の種麹も保管されている原菌貯蔵庫歴代の種麹も保管されている原菌貯蔵庫

珍しいところでは、カカオ豆の代替として、麹菌の力を使おうという試みもあります。カカオ豆は今、生産者の低年齢労働やフェアトレードなどの 問題で世界的に不足しているんです。その問題に対して、大麦などを原料にした麹をつくり、その後特殊な工程を経て、カカオを使用しないチョコレートを作るという試みがあります。

――御社は2024年から、麹の専門家を養成する「麹検定」の運営を始められましたね。

麹に注目が集まる中で、麹について正しい理解を持っていただきたいという思いが強くなってきました。しかし、なかなか一般消費者との接点が見つけにくいということを感じていました。また、どうしても私どもは技術者としての説明になってしまいがちで、一般の方に分かりやすく魅力的に説明するノウハウがなかった。その中で、ご縁があって、クッキングスクールで有名なABCグループさんと繋がることができ、ご協力を得て麹検定という形で実現することができました。

株式会社ビオックの村井 裕一郎 (むらい・ ゆういちろう)社長

子どもには家業をポジティブな気持ちで継いでほしい

――海外からの関心はいかがですか。

海外からの問い合わせは増えていますね。種麹は基本的に五大陸すべてに出荷しています。「麹」は外国語に訳さないで、そのまま「KOJI」で通りますね。デンマークのレストラン「Noma(ノーマ)」が発酵のラボラトリーを設けたのが2014年でしたが、この10年の間に、ヨーロッパ、アメリカでも発酵への理解は深まってきたと感じます。お酒や醤油など日本の大手メーカーさんの力も大きかったのだと思いますね。

株式会社ビオックの村井 裕一郎 (むらい・ ゆういちろう)社長

――会社の後継者については、どのようにお考えですか。

我が家の子ども3人のうち、誰かが継いでくれたらいいなとは思いますが、でも、継げと強要する気持ちはないですね。職業選択の自由も、居住地選択の自由もありますから。義務感から継ぐのではなくて、父親の仕事が楽しそうだなとか、この豊橋という場所が面白くていい町だなとか、そんな感覚で継いでくれたらいいと思います。

あくまで個人の自由な意思として、他の仕事に比べて魅力があるからというポジティブな気持ちで継いでほしいし、そういう仕事であり、産業であり、町であるというふうにしていくことが、子どもがこの会社を継ぐような年齢になるまでの僕の仕事なんだろうなと思っています。

株式会社ビオックの村井 裕一郎 (むらい・ ゆういちろう)社長
村井 裕一郎 (むらい・ ゆういちろう)さん

PROFILE

村井 裕一郎 (むらい・ ゆういちろう)

糀屋三左衛門29代当主/株式会社ビオック代表取締役社長
1979年、愛知県豊橋市生まれ。 2002年、慶應義塾大学経済学部卒業。2004年、慶應義塾大学環境情報学部卒業。2006年、アメリカ国際経営大学院卒業、国際経営学修士(MBA)取得。家業であり、室町時代の創業以来種麹をつくってきた糀屋三左衛門、株式会社ビオックに入社。2016年に家業を継ぎ29代当主となる。2022年、京都芸術大学大学院学際デザイン研究領域修了(芸術学修士)、2023年より公益財団法人日本醸造協会理事。