明治大学教授中島 春紫
――先生は20年以上、麹菌などが作る「ハイドロフォービン」を研究していらっしゃいます。まず、ハイドロフォービンとはどのようなものですか。
ハイドロフォービンは、麹菌を含むカビ、キノコなどの菌類が作る低分子タンパク質のこと。菌類の胞子、菌糸(きんし)*1、子実体(しじつたい)*2の表面を隙間なく覆っています。*1 菌糸:菌を構成する管状の細胞。
*2 子実体:胞子を作り、飛ばすための構造物が目に見えるくらいの大きさになったもの。キノコは大型の子実体。
菌類が作ったハイドロフォービンは、細胞の表面に集まり、水をはじく疎水(そすい)層を作ります。
ハイドロフォービンには、水をはじく疎水性の部分と、水になじむ親水性の部分があります。細胞表面に集まる際、疎水性の部分が外側になり、親水性の部分が内側を向くため、疎水層が形成されるのです。
ハイドロフォービンは、水をはじくという意味の「ハイドロフォービック(hydro phobic)」からできた言葉。キノコに水滴を垂らすとはじかれてコロコロと転がりますよね。それはハイドロフォービンの仕業です。
――その性質は、麹菌などの菌類にとり、どのような役割を果たしていますか。
菌類は、生殖細胞である胞子を飛ばして、無性生殖を行います。その際、キノコの子実体のような高くて大きな構造物を作った方が、胞子をより遠くまでバラまけますから、広範囲に繁殖できる可能性が高まります。
ただし、その構造物が疎水性を持たないと、雨などで水をかぶった際、水の表面張力でベチャッと潰れてしまいます。ハイドロフォービンの疎水性により、菌類は構造物を安定的に保てているのです。
飛ばされた胞子もハイドロフォービンで覆われていますから、空気中の水分をはじきながら、フワフワと長く飛び続けます。川や池などに着水しても沈まず、水面をどこまでも流されて陣地が広げられるのです。
――ハイドロフォービンの研究には、どのような難しさがあるのでしょう。
ハイドロフォービンは100〜150個のアミノ酸から構成されています。特徴的なのは、システインというアミノ酸の残基*3を8つ持っていること。*3 残基:アミノ酸の1単位
新たなタンパク質を見つける際には、コンピューターによる「相同性検索」という手法を用いるのが一般的です。相同性検索とは、すでに知られている同種のタンパク質のアミノ酸配列と似ているところ(相同性があるところ)を手がかりとして、新しいタンパク質を探す方法です。
ところが、ハイドロフォービンではシステインの部分以外は、アミノ酸配列が違いすぎるため、通常の相同性検索では見つけにくく、新しいハイドロフォービンを見つけ出すうえで、大きな障害になっています。
そこで僕らは、目星をつけたタンパク質のアミノ酸配列をプリントアウトして、学生たちが目視でハイドロフォービンに特徴的なシステインの配列があるものを見つけたら、それをしらみつぶしに詳しく調べるという手法を採っています。
この地道な手法を使い、僕たちはこれまでにハイドロフォービンを作る遺伝子を10個見つけました。
――まさに手作業の偉業ですね。他にも、研究するうえでの苦労などがあったら、教えてください。
タンパク質としては、とても扱いにくいのが難点ですね。ハイドロフォービンは水をはじく半面、吸着性が非常に高いという矛盾した特徴があります。一度何かにくっつくと、普通の方法ではバラけないのです。
通常、タンパク質を培養しようとすると、硫安(硫酸アンモニウム)で沈殿させて上清(上澄み液)を除いてから、精製のプロセスに入ります。しかし、ハイドロフォービンは硫安で沈殿させて塊にしたら、二度とバラけないため、培養するのも容易ではないのです。
タンパク質はアミノ酸が立体的な構造を取ることで機能を発揮しますから、アミノ酸配列だけではなく、立体構造を知ることも重要です。
そのため、通常はX線を使った「X線構造解析」を行いますが、ハイドロフォービンはこれまで述べた特性上、結晶を作りにくいのが難点。運良く結晶化に成功して立体構造を解析できたのは、世界でわずか2例ほどです。今後は、最新の顕微鏡「クライオ電子顕微鏡*4」を活用すれば、構造が少しずつ分かってくるかもしれません。*4 クライオ電子顕微鏡:-196℃の液体窒素で冷却してタンパク質などの生体分子の動きを止め、電子線を照射することで、試料を結晶化することなく立体的な構造を観察できる透過型電子顕微鏡。2017年、その開発に寄与した研究者3名にノーベル化学賞が贈られた。
――ハイドロフォービンの研究は、世界的にも盛んなのでしょうか。
先行しているのはヨーロッパです。医薬品や抗体産生などに応用しようとしていますが、あまりうまくいっていません。あと研究が盛んなのは、日本。麹菌と付き合ってきた長い歴史がありますからね。
――今後どのような分野への応用が期待できそうですか。
僕が有望だと思っているのは、環境分野への応用です。
工場排水をキレイにして川や海に流す最終段階では、吸着剤を入れて有害な重金属を取り除きます。ただ、そのために大量の吸着剤を使うとコストが上がります。
くっ付いたら離れないというハイドロフォービンの特性を活かし、重金属を吸着できる麹菌でフィルターを作ったら、吸着剤の代わりに使えるでしょう。麹菌はカビだから、放っておけば勝手に増えるので低コストで活用できる。しかも、万一工場外に流出しても、食品にも含まれる麹菌だから安全性は保証されています。ただ実用化するには、現在の吸着効率を2桁くらい上げる必要があります。
同じく環境分野では、東北大学大学院の阿部敬悦(あべ・けいえつ)教授の研究も注目されています。麹菌のハイドロフォービンが生プラ(生分解性プラスチック)の表面に吸着すると、生プラを分解する酵素を引き寄せて凝縮し、生プラの分解が促進されるのです。
――研究者を悩ませるハイドロフォービンの性質を逆手に取るわけですね。他にも、何か応用できそうな分野があったら教えてください。
ハイドロフォービンは泡を作る性質があるうえに、作った泡の持ちが良いという特徴があります。
泡持ちの良さが活きるのは、化粧品と食品だと考えています。
たとえば、洗顔剤にハイドロフォービンを入れると泡立ちが良くなり、その吸着力で顔の汚れと余分な角質を取り除いてくれます。また食品をふっくらさせるのにも、特性が活かせる可能性があります。
化粧品も食品も、高いレベルで安心・安全が求められますが、麹菌は人体にまったく無害なマテリアルですから、麹菌由来のハイドロフォービンも安心して使うことができるという大きなメリットがあります。
――改めて先生が研究を始められたきっかけを教えてください。
昔から山歩きをしながら、草花の写真を撮ったりするのが好きでした。高校時代は生物部。将来は生物のどこかの分野で飯を食ってやろうと思っていました。
ただ純粋な生物学者になると、霞を食って生きるような生活になることも考えられます。その頃、尊敬する高校の先輩が「いちばん好きなことは生涯の趣味に取っておいて、2番目にやりたいことを仕事にしたらいいんだよ」とアドバイスしてくれて、腑に落ちました。
もともと僕は純粋なサイエンスより、世の中の役に立つ実学がやりたかった。そこで選んだのが、農芸化学という分野。バイオ分野が日の出の勢いで盛り上がっていた時期でしたから、これはいいぞと東京大学農学部で農芸化学を専攻しました。
――大学ではどんな研究をされていましたか。
東大の農芸化学といったら、発酵研究の本家本元。面白い講義をする大好きな先生がいて「この人の下で学びたい!」と思って飛び込んだら、パン酵母を研究テーマに与えてもらった。その魅力に夢中になり、酵母が細胞内で作ったタンパク質を外へ運ぶときに必須の遺伝子を1つ見つけ、学位がもらえました。
その後、東京工業大学で職を得て、有機溶媒をかけても死なないような微生物を探す仕事をします。その後、東大から「戻ってこない?」と声がかかり、麹菌を本格的に研究。そこでハイドロフォービンの研究を始め、明治大学へ移るときに「このテーマはもらっていきますね」と話を付けて、以来20年経ちました。
――「いちばん好きなこと」は、現在どのように楽しんでいらっしゃいますか。
高校の生物部の仲間とは、いまも付き合いがありますよ。誘い合って図鑑片手に山へ登り、思い思いに草木の写真を撮っています。僕は高山植物が好きですね。東京の多摩地区の出身だから、奥多摩には数え切れないほど行きましたよ。
PROFILE
中島春紫(なかじま・はるし)
明治大学 農学部農芸化学科微生物生態学研究室
東京大学大学院農学研究科博士課程修了。農学博士。東京工業大学助手、東京大学大学院農学生命科学研究科助教授、明治大学農学部農芸化学科助教授を経て、2007年から同教授(現職)。パン酵母、有機溶媒耐性細菌などの研究を経て、現在は麹菌が作るタンパク質であるハイドロフォービンの研究に注力する。遺伝子組み換え実験教育の普及、食品安全行政、国際生物学オリンピックなどにも取り組んでいる。発酵食品を愛し、焼酎では麦焼酎を好む。