中津城下町の歴史をたどる道(中津市)

大分の歩きたくなる道 Vol.08 中津城下町の歴史をたどる道(中津市)

古くからの面影を残す町並みや、風光明媚な自然など、魅力満載の大分を歩いて堪能できるコースを紹介します。今回は県北部の中核都市・中津の城下町の歴史を物語る遺構を中心に散策します。黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)が造営した中津城、福澤諭吉旧居など観光名所も巡ります。
写真:三井公一

コース紹介



〈ウォーキングモデルコース〉

  1. ①中津城
  2. ②西門跡
  3. ③自性寺(じしょうじ)
  4. ④南部まちなみ交流館
  5. ⑤日の出町商店街
  6. ⑥福沢通り交差点
  7. ⑦寺町
  8. ⑧合元寺(ごうがんじ)
  9. ⑨福澤諭吉旧居
  10. ⑩闇無浜(くらなしはま)神社
  11. ⑪龍王橋
  12. ⑫中津川沿いの土手
  13. ①中津城

距離:約5.5km
所要時間:約1時間30分

〈大分全図〉

中津城を拠点に、JR中津駅の北側エリアに点在する遺構を中心に巡る街歩きのコース。ほぼ平坦で距離もそれほど長くないが、見どころは多い。トイレは中津城の駐車場(①)、南部まちなみ交流館(④)、福澤諭吉旧居(⑨)の3カ所で利用できる。全体的に静かで落ち着いた雰囲気の路地散策が中心だが、2度渡ることになる県道108号は車の往来が激しいので要注意。

お城の遺構をたどりながら、町屋が立ち並ぶ城下町を散策 ①中津城~②西門跡~③自性寺(じしょうじ)~④南部まちなみ交流館~⑤日の出町商店街

中津市は大分県北部の中核都市。福岡県との県境を形成する山国川が周防灘(すおうなだ)に流れ出る河口付近の支流・中津川沿いに、かつて中津城とその城下町があった。1587年、豊臣秀吉の九州平定に伴い軍奉行の黒田官兵衛がこの地に入り、翌年に中津城の造営を始めた。

関ヶ原の戦いの後、代わって細川忠興(ほそかわ・ただおき)が入城。その後、小笠原家、奥平家と領主が代わり、明治維新後の廃城までに、計4家がここを居城としている。この4家それぞれにまつわる遺構をたどれるのが、中津の城下町散策の楽しみのひとつだ。

ちなみに、中津城の最寄り駅は中津駅。福岡県の小倉駅から大分駅・宮崎駅を経て鹿児島駅に至るJR九州の日豊(にっぽう)本線にあり、小倉駅からは特急で35分程度。

中津城。右奥が模擬天守中津城。右奥が模擬天守

それでは中津城の駐車場からウォーキングをスタートしよう(①)。現在の中津城の模擬天守は1964年に建てられたものだが、石垣は築城当時のものが残っている。天守の中は奥平家ゆかりの品を飾る歴史資料館になっていて、歴代当主の甲冑(かっちゅう)などが展示されている。

石造の大鳥居をくぐって城下町巡りをスタート石造の大鳥居をくぐって城下町巡りをスタート

最初の十字路を右に曲がり、西へ200mほど歩いたところに西門跡の石垣がある(②)。城の南西の端にあった西門は「櫓門(やぐらもん)型」であったと考えられており、石垣の上に巨大な櫓が立っていたとされる。

西門跡に残る石垣。櫓は1869年に焼失しているが、土台である石垣の大きさから、巨大な建造物であったことが想像される西門跡に残る石垣。櫓は1869年に焼失しているが、土台である石垣の大きさから、巨大な建造物であったことが想像される

今回のコースからは外れるが、中津城のすぐ南にある小学校の校門は「生田門(しょうだもん)」と呼ばれ、江戸時代の奥平家家老・生田家の屋敷の門を移築したもの。小学校になる前は、中津出身の福澤諭吉の提言で明治時代に開校した洋学校・中津市学校だった今回のコースからは外れるが、中津城のすぐ南にある小学校の校門は「生田門(しょうだもん)」と呼ばれ、江戸時代の奥平家家老・生田家の屋敷の門を移築したもの。小学校になる前は、中津出身の福澤諭吉の提言で明治時代に開校した洋学校・中津市学校だった

西門跡から南西に向かい交差点を2つ越える。静かな生活道路だが、途中やや車通りの多い県道108号を横断する際は注意しよう。突き当たりの右手に見えてくる石積みの土手は、自性寺(じしょうじ)にある中津城の「おかこい山」だ(③)。

中津城は、城の周りだけでなく城下町にもお堀が配されており、その内側に「おかこい山」と呼ばれる土塁を築いて外敵の侵攻に備えた。町の外周を囲うおかこい山は約2.4kmにも及び、城下町に入るためには限られた出入口を通過しなくてはならなかった。この場所がその出入口のひとつだったという。

おかこい山は写真左側の自性寺の境内まで続いているおかこい山は写真左側の自性寺の境内まで続いている

自性寺は奥平家の菩提寺(先祖代々、葬儀や法要をお願いする寺院)だった。境内には江戸時代の画家・池大雅(いけのたいが)の展示施設も併設されている自性寺は奥平家の菩提寺(先祖代々、葬儀や法要をお願いする寺院)だった。境内には江戸時代の画家・池大雅(いけのたいが)の展示施設も併設されている

ここで左に折れ、諸町(もろまち)通りに入る。中津城下町は、黒田時代になされた町割りを元に細川家が整え、1632年から中津城主となった小笠原長次(おがさわら・ながつぐ)がさらに整備・拡張して奥平家に受け継がれた。諸町通りは江戸時代からの町屋の建物が多く残されるエリアで、落ち着いた雰囲気の路地をのんびりと散策できる。道中右手にある南部まちなみ交流館(④)は、この町屋のひとつを休憩所として開放した施設で、トイレも利用できる。建物は江戸時代に酒造や米問屋を営んでいた商家だったとされ、当時の梁や柱もそのまま残されている。

諸町通り諸町通り

南部まちなみ交流館南部まちなみ交流館

おもむきのある諸町通りの町並みおもむきのある諸町通りの町並み

突き当たりの新博多町商店街を南に抜けて少し歩いたら、日の出町商店街のアーケードに入る(⑤)。江戸の町並みの次は昭和レトロな商店街だ。大衆的な居酒屋を中心とした飲食店や呉服店が、約300mのアーケードの下にずらりと軒を連ねる。カフェで休憩したり、和菓子店で甘いものを買ったりするのもいいだろう。

日の出町商店街日の出町商店街

アーケードを抜けた先はJR中津駅北口。ロータリーでは中津出身の偉人・福澤諭吉の立像が迎えてくれる。コースの後半は、寺町を通ってこの福澤諭吉ゆかりの場所へ向かう。

中津駅北口中津駅北口

駅を見守る福澤諭吉の立像駅を見守る福澤諭吉の立像

落ち着いた寺町でひときわ目を引く赤い壁 ⑥福沢通り交差点~⑦寺町~⑧合元寺(ごうがんじ)~⑨福澤諭吉旧居~⑩闇無浜(くらなしはま)神社~⑪龍王橋~⑫中津川沿いの土手~①中津城

駅の北の県道108号に出て左に折れ、しばらく西へ戻る。先述のとおり車通りの多い大通りなので、横断の際は特に要注意。350mほど先の2つ目の信号、福沢通り交差点(⑥)を右折して北へ。まっすぐ行けば、通りの名の由来であり次のポイントでもある福澤諭吉旧居(⑨)に着くのだが、せっかくなのですぐに右側の細い道に入り、1つ東側の通りにある寺町(⑦)を通っていこう。

1km足らずの通りに12の寺院が立ち並ぶ寺町は中津城下町の東側の外郭沿いにあたり、戦闘の際には寺院の広い境内、大きな建物を利用できるようにしていたという。道は石畳風に舗装されていて、諸町通りと同様に落ち着いた雰囲気だ。

数ある寺院の中でひときわ目を引くのが、合元寺(⑧)の赤壁である。黒田官兵衛が中津に入った頃、もともと中津の実力者だった宇都宮鎮房(うつのみや・しげふさ)が黒田と敵対してだまし討ちに遭い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員殺された。襲撃の時の血潮を浴びた白壁をいくら塗り直しても血痕が浮き出てくるため、赤壁に塗り替えたと言い伝えられている。境内の柱には今も刀痕が残っていて、激戦の様子が偲ばれる。

独特な色合いでひときわ目を引く赤壁の合元寺独特な色合いでひときわ目を引く赤壁の合元寺

宇都宮陣営が襲撃を受けた際の刀痕とされる柱のきず宇都宮陣営が襲撃を受けた際の刀痕とされる柱のきず

寺町を抜けると福澤諭吉旧居に到着(⑨)。福澤諭吉は1835年、中津藩の下級武士の次男として大坂(現在の大阪市)の中津藩蔵屋敷で生まれるが、1歳の時に父が急死し母子6人で中津に帰郷。蘭学を志して長崎に遊学する19歳の時まで住んだ母の実家が保存されている。

福澤はそれから、江戸の中津藩中屋敷で慶應義塾の始まりとされる蘭学塾を開いたのち、欧米を歴訪。帰国後「西洋事情」「学問のすゝめ」などを書いて、明治維新後間もない日本に西洋文明の精神を伝えた。旧居と同じ敷地内には福澤の生涯をたどる展示などを見られる福澤記念館があり(要入場料)、駐車場には公衆トイレも設置されている。

福澤諭吉旧居福澤諭吉旧居

ここからさらに北へ800mほど住宅地を歩くと、石造の鳥居が現れ、「中津祇園(ぎおん)」で知られる闇無浜(くらなしはま)神社に着く(⑩)。中津を代表する夏祭り・中津祇園は、疫病退散・無病息災を祈願して行われる祭礼で、「祇園車」と呼ばれる13台の曳車(山車)と2基の神輿(みこし)が2日間にわたって城下町を巡行し、交差点で停まって曳車の上の舞台で「辻踊り」といわれる踊りなどの芸能を奉納する。曳車が通る上祇園・下祗園という2つのコースのうち、下祗園のスタート地点がこの闇無浜神社だ。

ちなみに上祇園のスタート地点は中津城敷地内の中津神社である。中津祇園はもともと小規模な漁師の村祭りだったが、1683年、中津城主の小笠原長胤(おがさわら・ながたね)が京都から美しい山車を取り寄せたことから、現在のような華やかなお祭りになったと言われる。

闇無浜神社。境内は広く、大きな曳車が行き交い多くの観客が詰めかける祭りの賑わいが想像できる闇無浜神社。境内は広く、大きな曳車が行き交い多くの観客が詰めかける祭りの賑わいが想像できる

神社を反対側に出て、再び中津城に向かう。龍王橋(⑪)で中津川を渡り、川沿いの土手(⑫)を歩こう。龍王橋からは右手に周防灘が見え、中津城が水辺の要衝であることを改めて認識できる。中津川の西側は小祝(こいわい)という地区で、漁港もあるのどかな住宅地。左手に広々とした河口を見下ろし、前方には中津城の天守が近づいてくる。気持ちの良いウォーキングが楽しめるスポットだ。

中津川沿いの広々とした土手を歩く中津川沿いの広々とした土手を歩く

中津城はもうすぐだ。手前に見えるのは北門橋中津城はもうすぐだ。手前に見えるのは北門橋

北門橋で再び中津川を渡り、中津城の天守の裏手に入ると、駐車場の外れに天守を支える石垣を近くで見られる広場がある。石垣の目地が小文字の「y」の形になっている箇所があるが、これは増築時に異なる工法が採られたことを示している。

向かって右が黒田時代、左が細川時代の石垣向かって右が黒田時代、左が細川時代の石垣

中津城は黒田官兵衛が造営を始め、次の城主の細川忠興が入城後、増改築を続けた。細川時代に完成した城に、その後小笠原家、奥平家が住まうことになるわけだが、そうした城主の変遷の歴史を垣間見ることができるのが、このy字形の遺構である。

この石垣から天守の外側を半周したら、駐車場に到着して城下町散策を終える。

このコースの見どころ 中津ウォーキング協会 会長 安廣光男さん

中津ウォーキング協会 会長 安廣光男さん

中津の魅力のひとつは何と言っても城下町の街歩きです。黒田、細川、小笠原、奥平と4家の城主が居城としたため、城下町にそれぞれのゆかりの地があり、いろいろな歴史が楽しめます。ウォーキングではコース中に使用できるトイレがあるかどうかも重要なことですが、このコースでは中津城(①)、南部まちなみ交流館(④)、福澤諭吉旧居(⑨)と随所にあり、そうした点でも安心です。

それから中津出身の偉人といえば福澤諭吉ですよね。私は高校まで中津で育ったのですが、よく大人たちに「福澤諭吉みたいにしっかり勉強しろよ」とプレッシャーをかけられたものです(笑)。

また、福澤諭吉のほかにも、日本初の歯科開業免許取得者である小幡英之助(おばた・えいのすけ)や、江戸時代後期に人体解剖を通じて近代医学の発展に貢献した村上玄水(むらかみ・げんすい)などを輩出しています。

(左)中津城の駐車場に立つ小幡英之助像。(右)諸町通りの村上医家史料館では村上玄水関連の資料が展示されている(左)中津城の駐車場に立つ小幡英之助像。(右)諸町通りの村上医家史料館では村上玄水関連の資料が展示されている 中津城の駐車場に立つ小幡英之助像。諸町通りの村上医家史料館では村上玄水関連の資料が展示されている(上)中津城の駐車場に立つ小幡英之助像。(下)諸町通りの村上医家史料館では村上玄水関連の資料が展示されている

中津は自然が豊かな土地でもあります。猿飛千壺峡(さるとびせんつぼきょう)の新緑や紅葉、耶馬渓(やばけい)の御霊もみじなど見事です。ちなみに青の洞門がある耶馬渓の競秀峰(きょうしゅうほう)は、福澤諭吉が身銭を切って買い上げ、開発の危機からその美しい景観を守ったという逸話が残るほどの名勝です。

中津ウォーキング協会のみなさんと中津ウォーキング協会のみなさんと

大会などを通じていろんな人と接することができるのが、私のウォーキングの楽しみのひとつです。行く先々で土地の美味しいものが食べられるのも魅力ですよね。

県内の他のエリアですと、私のお気に入りは竹田(たけた)市の岡城跡。歴史的な見どころもあり、道中アップダウンのおかげで歩きがいがある。昔、登山をしていたからか、多少の負荷があった方が楽しいですね。

安廣光男(やすひろ・みつお)

PROFILE

安廣光男(やすひろ・みつお)

1946年、福岡市生まれ。幼稚園から高校生までを中津で暮らし、再び福岡を経て、就職後は東京に移る。登山が趣味で全国の山を登っていたが、50代になって体力の衰えを感じ、平地のウォーキングにシフト。月に1回のペースでウォーキング大会に参加するように。定年を機に、幼少期を過ごした中津へ帰郷。引き続きコンスタントに大会に参加し、2019年から中津ウォーキング協会の会長を務める。お酒は毎日欠かさず、日本酒か大分麦焼酎「西の星25度」を水割りで。