肥後街道の石畳と宿場町をたどる道(大分市)|大分の歩きたくなる道 Vol.05

大分の歩きたくなる道 Vol.05 肥後街道の石畳と宿場町をたどる道(大分市)

古くからの面影を残す町並みや、風光明媚な自然、のどかな田園風景など、魅力満載の大分を歩いて堪能できるコースを紹介します。第5回は、江戸時代の名残を残す「肥後街道」の石畳の道と、野津原(のつはる)の宿場町を巡ります。
写真:三井公一

コース紹介



〈ウォーキングモデルコース〉

  1. ①野津原(のつはる)公民館
  2. ②旧道への入り口
  3. ③赤坂の石畳
  4. ④夜泣き止め地蔵
  5. ⑤伊塚の石畳
  6. ⑥矢貫の石橋
  7. ⑦鈴ヶ滝ビューポイント
  8. ⑧集落を見下ろすポイント
  9. ①野津原公民館
  10. ⑨野津原支所
  11. ⑩野津原神社
  12. ⑪野津原宿跡
  13. ⑫往還田(おうかんだ)
  14. ⑨野津原支所
  15. ①野津原公民館

距離:約6km
所要時間:約2時間

〈大分全図〉

大分市西部の野津原(旧・野津原町)にある野津原公民館を起点に、西側の「石畳」と、東側の「宿場町」のエリアを歩く。西側はやや高低差のある峠越えで、倒木や落ち葉が多く、特に雨天やその直後はぬかるみや滑りに要注意。東側の野津原支所には西側の野津原公民館と同様に駐車場があり、支所と公民館との間は700m強。時間がない場合や、峠越えで思いのほか体力を使ってしまった場合は、この間を車で移動するのもよい。

うっそうとした山道に現れる、風情ある石畳 ①野津原公民館~②旧道への入り口~③赤坂の石畳~④夜泣き止め地蔵~⑤伊塚の石畳

江戸時代、初代熊本(肥後)藩主の加藤清正によって整備された「肥後街道」。参勤交代で大名が江戸から熊本へ向かう際、東海道で大坂(大阪)まで行き、海路で瀬戸内海を渡って、鶴崎(つるさき、現在の大分市鶴崎)の港に到着。ここから現在の大分県、熊本県を通って熊本城まで約124kmを歩いた。主に熊本藩の参勤交代に使われたことから、鶴崎は豊後国の中にありながら、熊本藩の飛び地であった。ちなみに、「肥後街道」は大分側の呼び名で、熊本では「豊後街道」と呼ばれるそうだ。

今回は、その肥後街道の一部だった大分市野津原(のつはる)周辺に残る遺構をたどる。野津原公民館を起点として、街道の石畳が残る西側エリアと、宿場町の面影が残る東側エリアにコースをとった。距離はそれほど長くないが、やや高低差があるので、十分な水分と滑りにくい靴を用意し、しっかり準備運動をして臨もう。

野津原公民館(①)には70台ほど停められる駐車場があり、開館日であればトイレも利用できる。大分の中心市街地からはバスも出ており、大分駅前からは40分程度でアクセス可能だ。まずはここから西側の石畳コースで峠越えをしよう。

野津原公民館野津原公民館

公民館を出て横断歩道を渡り、左へ少し歩くと、「肥後(豊後)街道」「赤坂石畳・伊塚石畳」「矢貫石橋」と書かれた立て看板が置かれている(②)。矢印に沿って右へ折り返し、坂を数メートル上るとまた「肥後街道」の書かれた小さな看板が立っている。ここから矢貫(やぬき)の石橋(⑥)までは、分岐などに立つ同様の看板に従って歩こう。

看板に従って、国道から外れ赤坂の石畳へ向かう看板に従って、国道から外れ赤坂の石畳へ向かう

うっそうと茂る木々に囲まれた未舗装の道は、一気に山道の様相を呈してくる。日があまり当たらず、涼やかな森林浴に心洗われるようだ。足元の倒木や落ち葉に注意しながら上ろう。

しばらく進むと、江戸時代の「参勤交代道路」の名残である、苔むした石畳の道・赤坂の石畳が現れる(③)。在りし日の大名たちの足跡に思いを馳せながら、曲がりくねった道を上っていくと、ところどころ木々の間に景色が開ける場所もあるので、足を止めて休憩しながら、遠くの山並みを楽しむのもいい。

赤坂の石畳

赤坂の石畳赤坂の石畳

上っていけば、ところどころで美しい景色のご褒美も。自分のペースで楽しみながら歩こう上っていけば、ところどころで美しい景色のご褒美も。自分のペースで楽しみながら歩こう

急坂の上に小さなお堂が見えたら、そこが峠だ。お堂の裏手には、崖をくり抜いた洞穴にお地蔵様がまつられていて、夜泣き止め地蔵(④)と呼ばれている。

夜泣き止め地蔵
夜泣き止め地蔵夜泣き止め地蔵

下りにもある石畳の名前は伊塚の石畳(⑤)。赤坂の石畳よりやや幅広で、石畳の露出が多い。この石畳が途切れると間もなく、舗装された道となり、川の流れる音が聞こえてくる。

伊塚の石畳伊塚の石畳

2つのビューポイントを経て公民館へ戻る ⑥矢貫の石橋~⑦鈴ヶ滝ビューポイント~⑧集落を見下ろすポイント~①野津原公民館

下りを終えると、民家がぽつぽつと現れ、里に下りてきた実感を得る。ほどなくして、矢貫の石橋という小さな石橋で矢貫川を渡る(⑥)。石積みの橋台の上に一枚岩が架かっている構造で、車両通行のためにコンクリート舗装を施されてはいるが、古くからの構造を残していると考えられる。

矢貫の石橋矢貫の石橋

ここから公民館へと引き返すため、峠と並行する舗装道路を歩く。こちらはアップダウンが少なく、公民館へは緩やかな下りである。少し歩くと、どこからか「どおーっ」と水の落ちる音が聞こえてくる。

右手にガードレールが設置された辺りから、やぶの間をのぞくと、高さ十数メートルと思しき巨大な滝が遠くに見える(⑦)。この鈴ヶ滝はかつてこの辺りにあったお寺の修行場として使われていたもので、現在、近くに行くことはできないが、遠くからでも十分にその迫力を感じることができる。

鈴ヶ滝。近くまで行く道は立ち入り禁止。道が狭く車の往来も少なくない路肩に立ち止まることになるので、注意して観覧しよう鈴ヶ滝。近くまで行く道は立ち入り禁止。道が狭く車の往来も少なくない路肩に立ち止まることになるので、注意して観覧しよう

公民館までの復路ではもう1つ、ビューポイントがある。右側に景色が開けて、野津原周辺の家々や田畑を見晴らすことができ、その向こうには山並みも見える(⑧)。

眺めのよい下りの舗装道で、峠越えの疲れも癒される眺めのよい下りの舗装道で、峠越えの疲れも癒される

均一幅に整備された一本筋の宿場町 ①野津原公民館~⑨野津原支所~⑩野津原神社~⑪野津原宿跡~⑫往還田~⑨野津原支所~①野津原公民館

今度は東側の宿場町エリアへ向かう。野津原支所(⑨)にも駐車場があるので、体調や時間と相談して、公民館から支所の間の約700mは車で移動するのもいいだろう。

2005年に大分市に合併されたかつての野津原町、現在の大分市野津原は、森林面積が地域全体の8割近くを占める、起伏に富んだ中山間地帯で、蛇行して流れる七瀬川はホタルの鑑賞スポットとしても知られている。かつての町役場が現在の大分市野津原支所となっており、会議室やホールを擁する市民センターとして開放されている。

大分市野津原支所大分市野津原支所

支所の北には、熊本藩主・加藤清正をまつった野津原神社(⑩)がある。熊本藩は、現在の熊本県を主な所領としたが、参勤交代で通るこの野津原を宿場町として利用したことから、野津原も鶴崎同様、同藩の飛び地となった。そのため大分県内でありながら、熊本の大名である加藤清正がこの地にまつられているのである。

野津原神社の南側の通りが、野津原宿跡だ(⑪)。幅3間(約5.4m)と均一に整備された道が北東から南西にのびる一本筋の町で、東西と北を七瀬川がコの字状に囲んでいることから、防衛に好都合と、加藤清正が宿場を設けたのが始まりだという。約1kmにわたりまっすぐにのびた街道筋は見通しがよく、またあちらこちらに古い構えを残した民家の建物や石垣が見られ、往時の宿場町の賑わいがしのばれる。

野津原神社。鳥居には「加藤神社」と記されている野津原神社。鳥居には「加藤神社」と記されている
野津原宿跡。均一な幅の一本筋がまっすぐにのびる野津原宿跡。均一な幅の一本筋がまっすぐにのびる

この通りを東端まで行くと、七瀬川に突き当たる。肥後街道には「肥後往還」という呼称もあるが、この辺りは後に払い下げられ、田園として利用されたことから、往還田(おうかんだ)と呼ばれている(⑫)。田園風景と川の流れを見下ろす、気持ちのいいスポットだ。川沿いを歩いて国道に出たら、右折して野津原公民館へ戻ろう。

七瀬川沿いの土手を行く、往還田エリア七瀬川沿いの土手を行く、往還田エリア

なお、今回のコースからは少し離れるが、野津原公民館から10km弱、車で15分ほどの所に、もうひとつ有名な石畳の道がある。野津原宿と同様に肥後街道の宿場町だった今市(いまいち)宿も、熊本藩主の参勤交代に利用された宿場町。今市石畳と呼ばれるこのエリアは、幅2.1mの石畳が長さ660mにわたって敷かれて残っており、文化庁「歴史の道百選」に選定されている。時間が許せば、ぜひ今市でも散策を楽しみたい。

今市石畳。例年3月下旬には沿道のシダレザクラが見頃を迎え、観光客で賑わう今市石畳。例年3月下旬には沿道のシダレザクラが見頃を迎え、観光客で賑わう

肥後街道を歩いた偉人たち

肥後街道は、加藤清正が1588年に初めて肥後国に入国した際に通った道とされる。後に加藤によって拡張され、江戸時代になってから、参勤交代道路として利用された。

通常は5日間で鶴崎~熊本間を歩いた。江戸から熊本城に向かう際は、初日に鶴崎の港にある鶴崎宿から野津原宿、2日目に野津原宿から久住(くじゅう)宿、3日目に現在の熊本県に入り内牧(うちのまき)宿まで、4日目に内牧宿から大津宿、5日目に大津宿から熊本城下に入った。加藤氏の後に熊本藩主となった細川氏の時代にも、この肥後街道を通ったという。

現在、野津原周辺エリアに立つ肥後街道の看板現在、野津原周辺エリアに立つ肥後街道の看板

幕末には誰もが知る維新の志士たちもここを歩いた。1863(文久3)年、尊王攘夷派の長州藩が、関門海峡を通る外国船を砲撃し、英・仏・蘭・米の連合艦隊がこれに対する報復を企てていた。幕府はこれを受け、勝海舟に連合艦隊による砲撃を中止させるよう命を下す。勝は1864(文久4)年、坂本龍馬を連れ立って神戸を出帆、佐賀関(さがのせき)から九州に上陸した。翌日、鶴崎宿に宿泊して、肥後街道に入った後、野津原宿、久住宿、そして熊本を経て、長崎に赴いたという。

野津原公民館から車で約10分、今市石畳からは約5分の所に「野津原三渠(さんきょ)碑」という石碑がある。野津原の山間部に3つの水路を通して水田を切り開いた工藤三助(くどう・さんすけ、1661~1758年)という人物を称えた碑だが、当初肥後街道の別の場所にあったこの碑を見たという記録が「海舟日記」の1864年の日付で残っている。

江戸初期から幕末まで、時代の偉人が通った道に思いを馳せるのも一興である。

野津原三渠碑野津原三渠碑

このコースの見どころ 大分県ウオーキング協会 副会長・大分市民ウオーク担当責任者 若杉孝宏さん

大分県ウオーキング協会 副会長・大分市民ウオーク担当責任者 若杉孝宏さん

私がこのコースに初めて来たのは、2008年に大分県ウオーキング協会が開催した「肥後街道歴史ロマンウオーク」の時でした。大分市鶴崎から熊本城までの肥後街道全長約120kmを、江戸時代の参勤交代と同じように5日に分けて歩きました。

昔は夜明けとともに出発していましたから、それも同じにしました。朝6時くらいに出発して、6~7里(30km弱)歩き、夕方5時頃に目的の宿場町に到着する。それを何週かに分けて行います。野津原は初日のコースに含まれます。全員が全行程を歩いたわけではありませんが、それでも100人前後が参加しました。

私は初め、デザイナーとしてチラシの制作や、イベントのコーディネートの面で、ウォーキング大会をお手伝いしていたのですが、大分県ウオーキング協会が2001年に発足される以前から、県内で開催された全部の大会に参加してきています。

昔から歴史に興味があって、旅行した時などに山城に行ったりはしていたんですが、ウォーキング大会に参加するようになって、設定されたコースを見てみると、大体史跡とか神社仏閣とかが入ってきています。これは一挙両得やと(笑)。興味があるから、飽きずにいくらでも歩けますね。

当然、肥後街道を歩くこのコースも、そういう意味でも楽しんでいます。コロナ禍の影響もあってしばらく来ることができず、赤坂の石畳(③)、伊塚の石畳(⑤)は道の状態が心配でしたが、十分に歩けて、気持ちがいいですね。今日は落ち葉が多かったですが、雨が降って落ち葉が流されれば、石畳が綺麗に見えるでしょう。

野津原宿跡の通り(⑪)も歴史が感じられますし、それから今市の石畳も風情があっていいですよ。どちらも均一な幅で整備された、往時の宿場町の面影を色濃く感じられる道です。

赤坂の石畳を軽快な足どりでスイスイと上っていく若杉さん赤坂の石畳を軽快な足どりでスイスイと上っていく若杉さん

苔むした石畳の下りは特に滑りやすいので要注意。横向きになり、足裏の全面を地面に接着させることで、転倒を防ぐ苔むした石畳の下りは特に滑りやすいので要注意。横向きになり、足裏の全面を地面に接着させることで、転倒を防ぐ

若杉孝宏(わかすぎ・たかひろ)

PROFILE

若杉孝宏(わかすぎ・たかひろ)

1946年、大分市生まれ。大分県ウオーキング協会の立ち上げ時から、広告や記録などの面で大会の運営に関わり、歴代の会長をサポート。元々歴史が好きだったこともあり、様々な形で大会に参加するうち、すっかりウォーキングのとりこに。大分の戦国大名・大友宗麟をNHK大河ドラマの主人公にするべく、大河ドラマ誘致推進協議会の事務局長、NPO法人大友氏顕彰会の副理事長を務める。大友氏に仕えた田北(たきた)氏の末裔でもある。